當然の應報

高畠素之


勞働運動の傾向が普選熱から組合熱に推轉した時、早くも勞働運動の『赤化』を口にした者があるのを見て、我々は吹き出さずには居られなかつた。

勞働者の興味が普選運動――議會政策から組合運動に傾いたと云ふ事が何んで赤化であらう。社會革命と云ふ立場から見れば、議會政策も組合運動も共に等しく非革命性のもので、非革命性の議會主義が非革命性の組合主義に轉化したのは、亭主の褌が嬶の腰卷に轉化したやうなもので、多少垢染みては居らうが地は二つ乍ら白である。それは始めから分り切つた事なのだ。

それを社會主義者中の一部の者が今頃になつて漸つと氣付いたと云ふは、隨分優長な悟り方であるが、それは先づ宜いとして、之等の社會主義者に對する所謂勞働運動の指導者組合主義のチヤンピオン共の言草が氣に食はぬ。彼等は曰く、勞働運動は實際の仕事である。口先ばかりの遊戲ではない。實際の仕事だから多少の妥協や世帶崩は辛抱せねばならぬ。我々は百の革命を口にするよりも、一の實果を擧げる工夫が肝要だと。

然し乍ら、之等の指導者たちは、先きに勞働運動が普選熱から組合主義に傾いた當時、議會政策に對して『直接行動』を喋々し、ヤレ『赤化』の『左傾』のと、頻りに『非實際的』の口吻を弄した連中の片ワレであつた。されば彼等が今日同じ『非實際的』の口吻でイヂメられるのは、寧ろ當然の運命、至當の因果と云ふべきではないか。


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