哲學者の槍さび ―逝ける高畠氏のことども―

白柳秀湖

『一』

高畠君が死んだ。惜しいことをした。何とも知れず寂しい。

高畠君はよく例の調子で、マルクスを骨までしやぶつた。己がマルクスで食ふのもモウ此邊が行詰りだらうなど云つて居た。僕はさうは思はず、マルクスのやうな大きい思想家はちやうど太洋の珊瑚礁の上に立つて居るラヂオの柱のやうなものだから、その柱をシツカリと抱へ込んで居さへすれば、慌しく旅行鞄を解いたり、詰めかへたりし目まぐるしい日を送らんでも、坐らにして世界と共に移り變つて行くことが出來るだらうぢやないか。方面は異るが坪内さんは、シヱークスピアといふ柱を懷きかゝへて、立派に一生を送つたぢやないかと云つたが、ナアニさうぢやない、マルクスでも何でも要するにその人間の看板に過ぎない、さう云つて笑つて居た。

高畠君がマルクスで一生食へたか食へなかつたかは保障の限りにあらずとして、高畠君の實際運動はマルキシズムの解説と批評とが輝かしかつたほどに映えなかつた。尤もあれで實際運動の方までが映えた日にはチヨツト手のつけられないと云つた形もあつたであらうが、天はヤハリ高畠君に二物を與へなかった。併し、高畠君も世間の期待に對し、乘出した實際運動の方を何とかして展開させなければならぬ立場に立つて居た。僕等には高畠君が何うして實際運動の行詰りを打開するかゞ深い興味であつた。

『二』

高畠君の展開に二つの途があつたやうに思ふ。その一つは走り過ぎた右傾諸團體との關係を整理して、その身拵へを今少し經捷なものにし、國家社會主義あたりまで後戻りして今一度出直す、ことである。他の一つはマルキストとしての學究的地位と名聲とに執著を斷ち、右傾諸團體を統一してその陣頭に立ち、驀地に實際政治の上に進出することである。

併し僕に云はすれば、此二つの途は何方も高畠君にはいふべくして行はれぬことであつた。何故となれば高畠君にはそんなことをせぬでも、立派に立つて行かれる藝があつた。昔から彼はよく一身の利益幸福を犠牲にして主義の爲道理の爲、に殉じたとか、鐵鎖牢獄を恐れずして信念の前に直往邁進したとか云つて賞め立てるけれども、靜かに考へて見ると、人間が態々その不得意とする途に進んで、自分を立てて行くといふことが果して出來るものであるか、何うか。鐵鎖牢獄を甘しとして道理の前に直往邁進する義人も、猛火と白刃とを履んで、信念の前に驀進馳突した烈士も、要するにそれより外に行くべき途がなかつた。それが彼の進むべき最善の途であつたと、かやうに解釋することは、古來の義人烈士を冒涜する、許し難い臆病者の、己を以て人を律せんとする不埒千萬の見方なのであらうか。

初めに忠臣藏をかやうな立場から書いて見ようと試みたのは僕で、而も先年『改造』に掲載した『郡兵衞の脱走』がそれであつた。腹を切つて死んだ四十六人の義士の中にも、復讎の即時決行論者と、大學樣の先途を見届けた上でといふ論者の二派があり、それが血で血を洗はんばかりにして爭つて居たなどは面白いではないか。さうして猶ほ仔細に觀察すると、復讎の即時決行論はそれより外に進むべき途のなかつたものであるといふことがよく分る。即時に復讎を決行して世間の期待に副ひあはよくば赦されて高禄に有付かうといふものもあつたに相違ない。それで行くより外に生きる途のなかつたものもあつたに相違ない。生きる途はあつても、江戸に居て、江戸の人氣をマザマザと眼の前に見ては、乘るか反るかの大冒險をして見たいといふものもあつたに相違ない。

高畠君ほどの藝のある人が、果してその藝で食はうとせず、高畠君としては寧ろ割の惡い實際運動に投じて多くの子分の爲に金の心配をして暮すと云つた途を歩いたであらうか、何うか。假に高畠君が、今後尚ほ二三十年生き延びたとしても僕は何うしても同君が思切つて實際運動の方面に深入りしたであらうとは思はれぬ。高畠君はやはり、書いたり、しやべつたりしてホントに實際運動に身を投じなかつた人ではないかと思へてならぬ。勿論、死ぬ前に何か云つて居たこともあらうが、僕等はそれを久しい以前から聽かされて居た。云つて居たことは必ずしも實現されると限らぬ。

『三』

高畠君は話して氣持のよい人であつた。それは高畠君が滅多に人の話の問題を取ちがへて反駁したり、聞き迫つたりせぬことであつた。世間には相當に學問素養ありとされて居る人で、よく人の話して居る問題を取ちがへて批評する人がある。勿論事の是と非とは各人の見る所によつて異るのであるが、その是と非とを論斷したり、批評したりする前に問題だけはお互に理解し合つて置くことが大切である。

小學校からアメリカで教育を受け、アメリカ語(所謂英語)の素晴らしく達者な人を二三知つて居るが、頭腦の働きに同じクセがあり、よく人の話して居る問題を取ちがへる。又、それらの人々は云ひ現はし方こそ違ふけれども、意味は全く同じであるといふことが揃ひも揃つてよく分らぬ。無暗に人の説に異を立てるが、自分の云つて居ることも結局同じである。といふことに氣がつかぬ。(1)アメリカ育ちの人は物事の第一義的解釋と、第二義的、第三義的解釋との比較がとれぬ。それで往々第二義的、第三義的解釋を以てして、第一義的解釋に置きかへようとする。

高畠君は例のベランメー式に話をして居る時でも決してさういふことがなかつた。彼の頭腦は先天的に哲學的であつた。高畠君がヘーゲリアンであらうともカント流の理想主義者であらうとも、又、新カント學派であらうとも、それは高畠君の勝手であつて、それに異議があれば各自の立場々々から爭へばよいまでのことである。高畠君もマルクスの『資本論』を完譯して置きながら、マルクス主義の信者になれなかつたのであるから、ツガン・バラノヴスキイ位は擔出して來なければ納まらなかつたであらう。併し、高畠君がマルクスを解説する時には、マルキシズムの基礎工事となつて居るヘーゲルの哲學を實によく理解して居た。又、ツガン・バラノヴスキイを解説する時には、その新マルキシズムの根柢をなして居るカント哲學を實によく理解して居た。高畠君が何ほどの哲學史家であつたかは知らぬが、彼の頭腦が先天的に哲學的であつたことだけは確かである。彼は哲學に腰をかけて槍さびをうなつて居た。

『四』

高畠君には哲學史があり、又、其頭腦は著しく哲學的であつたと思ふが、その素養の中に一つ缺けて居たと思ふものがある。それは日本のクラシツクスである。

高畠君は晩年社會時評をやつて、その方面でも大に世に持て囃されて居たが、時々歌舞伎座から昨日仕入れて來たばかりではないかと思はれるやうな生々しい科白などを入れて僕等をハツと思はせて居た。僕等としては、梅の由兵衞を見て來たからと云つて、直に『殺すも金、生かすも金』の科白を援用したり、桃中軒雲右衞門を聽いて來たからと云つて、直に、『四百四病のやまひより、貧ほど辛いものはない』を文章の中に入れて讀者を唸せようとする勇氣はない。然るに高畠君は時評でアレほどに世に持て囃されながら、そんな文句を得意になつて援用して居た。その邊になると全く初心なものであつた。併しその初心な場あたりが存外若い人々に持囃されて居たのであるから世の中は不思議なものである。

『五』

僕は曾て高畠君を七段目の由良之助にたとへた。世間では高畠君がその右へ右へと止所もなく走つて行く脱線振りを見て、ひどく危つかしいことに思つたものであるが、存外腹の中に締つた所があり、己は何んなに世間から持て囃される時が來ても調子には乘らないぞと、自分で自分を引締めて居た。

人氣が出來、金が出來、その上にアノ通りの氣象であるから、三角關係でも四角關係でも後から後からと出來さうなものであるが、少しもさういふことがなかつた。女といふものは高畠君のやうな明るい頭腦の窓に對してはマトモに向いて坐ることが出來ぬものと見える。家庭は至極平和で、逆境時代に京都で或る西洋人の門番をして暮しわびた時の細君を一生大切にして、三人の子達の好きお父さんで畢つた。

死ぬ少し前、高畠君が或る人に語つて白柳は己を七段目の由良之助にたとへたが、あれは間違つて居る〔、〕己が大酒を呑んだり、無暗に人と喧嘩をしたり、かうして反動的に右へ右へと走つて居るのは、己としては少くとも正氣である。深い考へがあつてこんな眞似が出來るものではないと云つたさうであるが、一面確に如才ない所があり、調子に乘つて三角關係だの四角關係だの起さぬ所から考へると、他の一面に於ける高畠君の鬪爭性には、幾分發作的の所があつたとも考へられる。高畠君も或る人に語つて己には發作の血が流れて居ると云つたことがあるさうである。

人が一代かゝつても出來ぬほどの仕事を僅々十四五年の間に成し遂げ、その間に酒も呑む、喧嘩もする。門人も取立てる。僕のやうな意氣地のない友達も引張つてくれる。細君も仕合せにする。娘も立派に教育する。犬も可愛がる。それでは長命の出來なかつたのも無理はない。働きすぎて短命に終つたのは調子に乘り過ぎたと云へぬこともないが、人間何人でも高畠君のやうに花を咲かせて、きれいに散ることが出來るものであるとしたら、誰が長命などを望むものであらう。

(昭和三、一二、三一)


底本:『改造』第十一卷第二號(昭和四年二月)

注記:

※二頁目の真中に写真あり。『新勢力』所収のものと同じ。
※句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。
(1)。:ママ。

改訂履歴:

公開:2006/03/06
改訂:2007/11/11 最終更新日:2010/09/12

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