更新日記

○10月15日(日)

第二十四回:再び資本論解説

こんにちは、多分今週の更新は出来ないだろうと思っていましたが、何となく土曜日に時間が取れましたので更新した次第です。ただ、前々から言及している、ムッソリーニと社会評論のテキストは、校正に時間が懸かりますので、また今度と言うことにしました。悪しからず。

今回は再び「資本論解説」について。あまり扱いたくなかったわけですが、どうも本サイトの一番人気らしいので、試しに現代語訳(?)版を作ってみました。深い意味はありません。それに新字体はともかく、新仮名遣いはそれほど厳密にしませんでしたし、改訂し忘れているところもあると思います。まあ、原文のテキストがあるので気楽にしました。(第2篇第10章は長いので今回は諦めました。)

それと読む人もいないだろうと思いますが、希望的観測で、正式版データのダウンロードも付けておきましたので、宜しければ落として見て下さい。ただしおつりは来ません。

新字体への変換は、ちょっと面倒なだけで、それほど神経を使うものではありません。一律に変換させても問題ないですから。ですが新仮名遣いとか一部の漢字を平仮名にとかいうことになると、……改め終わった今の心境から言いますと、寧ろ改めない方がよかったような気もしています。やはり漢字だけ改めるべきでしたかねえ。

最近、長谷部文雄氏の『資本論随筆』という本を読みました。書名の通り、資本論について論及したもの(感想のたぐい)を一冊にまとめたものです。高畠訳についてコメントがあるとか、河上肇の翻訳の逸話があるとかいう話しは聞いておりましたので、是非とも読まねばと思っておりましたが、近くに無かったので読めなかったのです。特に探してまでも読む気力もなかったのですが、なんとなく読む機会に恵まれましたので、これ幸いと読んでみたわけです。(もちろん高畠訳と河上のところだけ。)確かに、そこで高畠訳について二三のコメントがありました。33頁と64頁にまとめて出ていますので、興味のある方は是非どうぞ。(言うまでもないと思いますが、長谷部氏というのは、日本評論とか青木書店で『資本論』の翻訳をした人。全訳では高畠さんに次ぐ二番目だったように記憶してます。)

『資本論』の翻訳者の回想記というのは、高畠さんの『自己を語る』に載っているのと、この長谷部氏との外、向坂氏と岡崎氏とにもあります。長谷部氏と向坂氏は各々それで名のある学者だけに、翻訳に関してはいろいろと言っておりますが、流石にソツがないですねえ。岡崎氏のは、頂けない記述が多かった様な気がしますが、私の気のせいかも知れません。人を貶すにも技術がいると見えて、高畠さんの批判の巧さに改めて感心させられました。気に入らないこと、あるいはそれが事実であっても、批判の仕方次第で、却って自分に不利に働きますから、なんとも文字は怖い話しです。

それでは今回はこのへんで。大して変ってないと思いますが、たまにはまたいらしてみて下さい。

○10月9日(月)

第二十三回:微更新

こんにちは、随分ごぶさたしてます。一ヶ月以上、更新もありませんでしたが、みなさんお元気だったでしょうか?……といっても、更新日記まで目を通す人は稀でしょうから、いらぬお世話かも知れませんが。

相変わらず日常生活が多忙ですので、更新もままなりません。ただあまり更新しないと、お客さんが減るという以上に、私自身が更新自体を忘れて、サイトの存在を無意味にしてしまう可能性も出て来ましたので、取り敢えず、ごく僅かですが更新することにしました。

そこで、ちょうど前から更新の必要を考えておりました、論文目録の更新をすることにしましたので、宜しければご覧下さい。自動解凍ではありませんから、適当な解凍ソフトをつかって解凍していただけたら幸いです。

以前は段組なんかをしてましたが、更新に不便なのと、レイアウトがしばしば歪んでしまいますので、完成するまで(完成しないと思いますが)段組はやめて、通常の目録にしました。また使用に便利が悪いので、年月日を重複して残すことにしました。因みに収録論文は前回のものよりもそれなりに多くなっております。前回、論文数を数えていませんでしたし、今回も数える気もしませんでしたので、数は知りません。

今回の目録は、私の知っているもののなか、確認の取れなかった若干を除いて、殆んど掲載しました。ですからこれ以上の論文目録は、当面作れそうにありませんので、その点がご了承ください。

訂正などをご連絡くださる場合は更新させていただきますので、勝手ではありますがその方面も宜しくお願いします。

最後に、10月2日に随分拍手をいれて下さった方がいましたが、ありがとうございました。低更新の日が続くことと思いますが、これからも宜しくお願いします。

それでは今回はこれにて失礼します。次回の更新も何時になるやら分りませんが、たまにでも来てみて遣って下さい。

○9月5日(火)

第二十二回:むかしの綱領など

こんにちは

我がサイトの存在を忘れていて、気づいたら火曜日になってました。最近、余暇に費やせる時間が少ないもので、更新もままならない状態だったりします。人間、暇がないと馬鹿になるらしいので(自分の身の回りで起ったこと以外は分らなくなるという意味)、気を付けないと行けませんね。

今回の更新は、あまり時間のかからないものということで、ふるい綱領を資料としてあげるだけにしました。高畠さんの国家社会主義の後を追うのは本サイトの主目的ではないですが、少し気にもなりましたので、赤松克麿一派の国家社会党と『日本社会主義』(日本社会主義研究所の機関誌)の暫定公領、国家社会主義学盟の綱領などを公開してみました。たいして重要なものでもないのですが、その中でも物議を醸したのは、『日本社会主義』暫定公領の第七条と第八条とがそうならしいです。何でも侵略戦争を肯定していると。機関誌同人には色々弁解もあるようですけどね。

綱領などの細かい説明ですが……しようと思いましたがやめました。一つには私がそこまで詳しくないことと、もう一つは時間もありませんので。しかしこれを読んで何か分るような人なら、多分説明はいらないでしょう。逆に読んでも全く意味を感じない人は、今更このようなものを読まなくともよいと思います。

こうしたむかしの左派の綱領を読んでいてつくづく感じることですが、彼等にとっては歴史の進歩とか科学的とかは、私には考えられないほど重要なものなのですねえ。理窟としては私もどこかで読みましたから、「科学的」がやたらと持て囃されたらしいことは知っていますが、どうも彼等の「科学的」一辺倒には疲れますね。そうした一辺倒を信じられる……というか、パラダイムがあるというのは、お目出度さではなく、しあわせな(時代状況じゃないですよ)時代だったのだろうな~と遠い目をしてみたくなります。今では「科学的」はおろか、パラダイムがないことがパラダイムみたいなものですもの。

しかし、むかしマルクスは自分の社会主義を「科学的」といい、それ以外のものを「空想的」といっていました。それで自分の「科学的」な社会主義は、歴史の必然的な帰結として資本主義は崩壊するといったのですし、その一派は植民地分轄の戦争も起こるのだと予見したのですが、今現在のマルクス一派はどうなっているのでしょうね。

私の知っている数少ないマルクス好きの人間は、やたらと空想的なのは何故でしょう?いやいや、そう言う人の真面目さをカラカウつもりはないし、第一、自分の正しいと思うことをするしかないというのも分ることは分ります。しかし、正しいと思うこと行ったからといって、それが達成できるものなのか否か。

平和が善いとか、みな幸せになりたいとか、そういった超時代的な願望は兎角として、何故戦争が起こるのか――これを分析して「科学的」に戦争不可避とでも結論が出たら、どうするのでしょう?いははや、確かに、必然的にこのあと不幸しか待ってませんでは、パラダイムにはなりにくいですけどね。

余計なことを書いていると長くなりましたが、今回はこのへんで。来週も更新できればいいな~といった所です。

○8月28日(月)

第二十一回:僅か……

こんにちは……久しぶりの更新です。疲弊しておりますので更新内容だけ。『ムッソリーニとその思想』の第一章第一節、第四章の第二節と第三節のみ更新。それにしても校正は予想以上に時間が懸かって行けませんな……第一章と第四章の大部分はタイプが終わってから中々校正が終わらない。ってまあ、校正の時間を取っていないのですから当り前ですけども。

予定ではそろそろ新企画の予定でしたが、もう少し延期します。実はこちらも五ヶ月分ほどの社会時評はタイプ済みなのでした。しかしまあ……校正とは面倒ですな。しかも校正してもまたミスがあったりするという。それではまた時間のある時にでもお立ち寄り下さい。

○8月8日(火)

第二十回:準備中

こんにちは!……私の勝手な寝言を書けるスペースを設けた途端、特に書く必要のあることが無くなるという、皮肉なことになったのが、実に皮肉なこの頃です。

今回の更新は初出部分の改訂と、「新版無産政党談議」、『ムッソリーニとその思想』の予告です。念願の『婦人画報』と『女性』を確かめたのですが、『女性』は一つ確認するのを忘れてました。また行くのは面倒なので、次ぎに調べるのは早くても秋以後になる思います。それと予定では今回から新企画を始める予定でしたが、ちょっと準備が間に合いませんでしたので、次回以後ということにします。

と言いますのも、実は『ムッソリーニとその思想』のタイプをしておりましたら、ちょっと厄介なことがありましたので、「社会時評」の校正が遅れたのです。『ムッソリーニとその思想』は随分前に読んだもので、当時は初出もなにも考えておりませんでしたから、最終章はてっきり『読売新聞』の皇室中心主義のものだろうと思っておりました。ところが最近知った『春秋』に類似のものがありましたので調べ直しますと、どうも最終章の最後だけが『読売』のもので、あとは多の論文を集めたものだったようです。

そういうことで、『ムッソリーニとその思想』も半分くらいはタイプが終わっていることになりましたから、『読売』を確認して初出の「ウラ」を取ったわけです。それで今週は先週は随分時間を食いました。大体、図書館が閉まるのは七時頃ですから、極僅かの間で調べる必要があります。それをバタバタと調べていると、思わぬ調べ損ないがあったりして、無駄な手間がかかったのでした……しかしこれで『ムッソ』の初出がすべて分るという、私としては極めて珍しい結果になりまして、妙に喜んでおります。因みに「偏局哲学」(『自己を語る』)の初出が『女性』だったことも分りまして、これもラッキーでしたね。ま、専門家の場合は調べる所も分っているのでしょうが、これが素人の辛い所です。

それではまたお暇な時にお立ち寄り下さい。ちなみに来週はお盆があるので更新はしない予定です。

○7月30日(日)

第十九回:改編等々

こんにちは!ご無沙汰してます。何とか生きております。

面倒な仕事が終わりましたので、最近は少し時間がありました。ということで、思いきって外観を変え、若干更新も多めにしてみました。私の好みで緑系統の色を使っていましたが、ぼけーっとした感じが気に障りましたので、青にしました。それとサイトの名前も若干(?)変えましたので、宜しくお願いします。ただし中味は変ってません。

更新の論文は、『批判マルクス主義』の日米問題批判、それにともなって備忘録の更新。『局外』から「常識国家論」、念願の「欲望の研究」、『中央公論』から「絶好の取組的興味」、「四人四色」、『春秋』から「議会制度は万全か」、序文四種、雑誌・新聞一覧と備忘録、リンク集一件追加。

「日米問題批判」はもともと『批判マルクス主義』に収録されていたものが、高畠さんの死後に削除されたものです。今回は懸案の問題が解けましたので、公開することにしました。テキストは二種類(二つの同じ新聞という意味。保存の問題で穴が空いていたり字が消えていたりする)利用してます。ただ一個所文字が判明しませんでしたので、それは「□」としています。尋でにもう一つ、『春秋』の中にカウツキーの飜訳を通釈したような論文がありました。その御陰で「○」となっていた字の意味が分かりましたので、これも補ってます。(HPから移動できる論文のものは変えていない)これらにともない備忘録も更新してます。

「常識国家論」は第一次『局外』最終巻(四月号)に掲載された論文です。内容的には『批判マルクス主義』の「我々の国家観」と同じです。相当程度文字も類似してます。ただ論題からして気になる人もいるかと思い(私だけかもしれませんが)、公開してみました。

「欲望の研究」は長い間準備中となっていたもの。『世紀』が初出ですが、後に『英雄崇拝と看板心理』に収録されました。特に指摘がなかったので高畠さんの文章だろうと思ってましたが、明らかに文体が異なるので調べてみると、バラノブスキーの文章からの抜粋のようですね。この手のものは珍しくないのでしょうが、高畠さんの場合、副題に○○の立場、とかなんとか指摘している場合が多いのです。尤も、本文は高畠さんにしては博学に過ぎし、趣味的な発言が違いすぎるので、何かの訳述だろうということは直ぐに気付くのですが。高畠さんの手になるのは、論文冒頭の導論めいた(一)の部分だけだろうと思われます。

「絶好の取組的興味」と「四人四色」は『中央公論』に載った文章で、前回紹介したものです。前者は第一次普選に立候補した安部磯雄と大山郁夫とを比較したもの。中央公論からの依頼論文と思われます。「四人四色」の方は、出版社の社主を比較したもので、当時出版事業が加熱してましたから、その比較のようです。高畠さんはこの手のものを他にも幾つか書いてますが、出版事業そのものの論文も幾つかあり、恐らくその中でも代表的なものが『英雄崇拝云々』に入ってます。

「議会制度は万全か」というのは、『春秋』に掲載された論文で、私が最近考えている議会制度と民主主義などの話で興味がありましたので公開しただけです。つまらんことを言ってるようですが、私としては中々面白い読み物でした。現在と違い、当時はデモクラシーとか議会制度というのは選択肢の一つであって、議会制度は左右の独裁から批判されているとも言われてましたから。新興の総合雑誌(まだ総合化してないかも知れないですが)『経済往来』にも「議会政治と将来の予想」なる特集を組んでいます。(大正十六年一月号)とはいえ、高畠さんが議会政治の破綻を、二大政党制による恒常的権力浮動と少数政党による権力浮動という二点に見て、一大政党による権力壟断に見なかったのは、彼の立場なんでしょうね。イタリアの政情を見て小党分立を思ったのでしょうけど、独裁的権力について、正直な所、彼がどう思っていたかは、ここでは明瞭には語っていないようです。ま、議会制度が題目なので、当然ですけども。

「議会制度は万全か」と絡めるべく公開した訳ではないですが、序文四種の中、ミヘルスの『政党心理の研究』(現代的には『現代民主主義における政党の社会学』か『政党政治の社会学』となっていたと思います)と津久井氏の『ムッソリーニ』の序文、特にミヘルスの序文は、議会政治とか寡頭制の鉄則とかに関係するだけあって、意図しないまでも関係のあるものになってしまいました。遠藤無水と尾崎士郎のものに対する序文は珍しいので公開しただけです。尾崎士郎はもう一つ本を書いていて、これにも高畠さんは序文を書いたらしいですが、こちらは未見です。

私は知りませんでしたが、遠藤無水の『社会主義者になった漱石の猫』は、かつて漱石ファンに『我が輩は猫である』のパロディ本という紹介があったらしく、御陰でただでさえ安くない古本が、更らに高騰したとかいうことでした。因みにこの本には高鼻基行なる人物が出て来ます。高鼻ということは、高畠はタカハタと呼んでたのでしょうか。『近代日本社会運動史人物大事典』(日外アソシエーツ,1997年)の高畠素之の項目は、田中真人氏が書かれていますが、田中氏は従来タカバタケと呼ばれていたとして、見出しは「タカハタ」で記していたと記憶しております。田中氏は『高畠素之』を書かれた時、本文最後か年表の最後で、本人は「タカバタケ」と呼ばれたがっていたということを記してますが、何か新しい事実を掴んだのでしょうか。尤も戸籍上、タカハタでも、本人がタカバタケと言っていた場合、活動家としての名前はタカバタケでよいのではないかという気もしますね。どちらでもいいですが。

雑誌・新聞一覧は高畠さんと直接関係した雑誌の目次です。極力本文から目次を作り直しましたが、目次しか見ていないものもありますので、それは目次にのみ依ってます。注記してますので、気を付けて下さい。目次製作は厳密にするようにしましたが、学力のない人間が別の仕事をしながらしているものですから、その程度のものだと思って下さい。それと『急進』と『大衆運動』はどちらも重要なものですが、残念ながら未見ですので、目録はありません。備忘録の方は、これら雑誌の性格などを書いてます。勿論私の所感ですから、参考程度です。それと高畠さん直営の雑誌以外にも、第二次『随筆』(第三次とも言うらしい)と『春秋』も挙げてます。これは高畠さんの直営雑誌がなくなった後に出たということと、高畠さんも比較的多数(擅ままに)論文・雑文を書いてますから、これも説明してます。ただこれは他の人が既に調べてましたので、それを参照してます。

リンクに付け足した「県立土屋文明記念文学館」は、『風』という雑誌を発行しています。ここに石山幸弘氏の「大逆事件の飛沫」という論文が五回ほど連載されてます。その五番目(第十号)に「高畠素之書簡翻刻」がありますので、リンクに加えています。実は最近しったのです……

題目に「人物論」などと偉そうな銘を打っているものがありますが、これは大した物でもなく、また量も少ないので期待しないでください。他に適当な場所がなかったので、特別枠を設けただけです。

更新は以上ですが、未確認情報を一つ。『論想談』の「談」の「議会」は『黒潮』の文章かもしれません。黒潮に高畠さんが書いているのは何かで知ったのですが、何が書いてあるのかは調べられていませんでした。今回『黒潮』の目次を確認すると「議会」とありましたので、多分それだろうと思います。いい加減、『婦人画報』と『女性』を調べたいのですが、どうも調べに行く時間が……

最後に、何故か知りませんが、最近web拍手を多数頂いております。どなたか存じませんが(あるいは同じ人かもしれませんが)ありがとうございました。成る程、人ごとだと、拍手を貰っても大したこともあるまいと思っておりましたが、これが人ごとでなくなると中々乙なものだということが分りました。……そうですねぇ、要するに、餌付けのようなものだと思って頂くと分りやすいのではないでしょうか。

それと、ぼちぼちこの「更新日記」も改廃しようと思ってますが、十九回というのも気持ち悪いので、いま暫くこのまま続けます。

それでは今回はこれで終わりです。今回は不要に更新を増やしたので、ちょっと身分不相応でした。次回は新企画を始める予定になってますので、少しだけの更新になると思います。それでは、また時間があれば来て下さいませ。

○7月9日(日)

第十八回:『論想談』完成

今回は少しだけ更新。

身辺がちょっと忙しくなってきましたので、今回の更新は微調整程度です。『批判マルクス主義』の備忘録、初出一覧と『論想談』の疑惑部分の改訂。

ともあれ、これで漸く『論想談』は終わったことになります。初出一覧に出しましたように、「現代の悪制度」の初出は『週刊日本』ではありませんでした。文字の補入部分は、「悪制度の研究」の通りでしたが、形的には『春秋』で補正したことにしています。もう一つ疑問のあった「身分」と「自分」は『春秋』に従い、「自分」のままとしました。(読み直して、書いた本人しか分らない文章になってますが、ながなが説明する気にもなれないので、そのままにしておきます。分らないと困るようなことではないので、分らない人は飛ばして下さい)

予定では、今回は「欲望の研究」を終わり、来週から微調整と「著作一覧」(Wordのもの)を増補訂正する予定でしたが、そうは問屋が卸さなかったようですね。

次回の更新ですが、今月の十日から二十九日の間は更新しません。出来れば月末の三十か三十一日に更新したいと思っています。とはいえ、ちょっと予定の立てられない状態ですので、また思い出した頃にでもお立ち寄りくださいませ。

今回はこれで小夜奈良。

○7月2日(日)

第十七回:高畠さん論文の投稿先

こんにちは、一週間ぶりです。

今回の更新は「英雄崇拝と看板心理」のみとなります。もとは『改造』に掲載された論文で、遺稿集『英雄崇拝と看板心理』にも収録されています。公開中のものは『改造』所載のものです。基本として同じで、若干初出のテキストに分がありますが、怪しい所は校勘に掲げておきました。なお本文中の「福本某」は、言う迄もなく、福本和夫です。念のため。

そうそう、どなたか存じませんが(当然ですが)、拍手を入れて頂いたようで、有り難うございました。もしかすると画像が重かったのではないかと思いすが、如何でしたでしょうか?私が初めに確かめた時は軽かったのですが、HPから直接クリックしてみると、思いのほか、表示に時間が懸かってしまいました。とはいえ、何れにせよありがとうございました。

ええっと、話がそれましたが、既にエッセイ集三つが終わりましたので、これからはこういう単品ということになります。研究書をテキスト化してもいいのですが、何とも忙しいので当面は未定ということで悪しからず。

以後、単品の収録は、取り敢えず高畠さん晩年のものから選んでいこうと思ってます。と言いますのも、高畠さん自選のエッセイ集や研究書が出ている段階では、高畠さん本人が重要だと思ったものは大体収録されているだろうと思われるからです。しかし晩年の論文、『論想談』出版以後のものとなると、『批判マルクス主義』(半分自選ですが)にせよ『英雄崇拝』にせよ、何れも門下の編纂物ですから、選択の合否はともかく(政治的事情があるとはいえ、門下の選択ですからね)、収録漏れのがある可能性があります。

田中真人氏の本は、その立場の如何は別にして、高畠さんの論著をよく調べていらっしゃる。その意味で、田中氏が自身の調べた論文一覧を、紙面の関係で削除されたのは残念なことです。しかし田中氏はともかく、まま高畠さんに言及する研究者が、高畠さんの論著の全貌に無頓着なまま、既存の研究書(甚だしくは『批判マルクス主義』をそのまま利用するなどして)に依拠して高畠さんの見解を纏めようとするのを見ると、少し論拠が脆弱な感じがします。

勿論、通常は厳密に研究範圍を狭めることで、この問題を回避するのですが、中にはそうでもないのも見受けられます。(この中、他人の研究書を以て高畠さんの思想はこうだった云々といっているのは、研究と言えるものではないので問題外)やはり一度は高畠さんの論著の一覧を作ってみたいものです。私の場合は能力的にも時間的にも、金銭的にも無理な話ですが、分る程度の範圍は公開して見たい気持ちです。何れ真面目な研究者が正確な一覧表を製作されたなら、もう私の試みも不要になりますが、それはそれで嬉しい話です。私も高畠さんの論文をできるだけ読みたいですから。……まあ見せてくれない機関に論文あったりすると、論文の所在が分っている分、読めないのは悔しいというのもありますが。

閑話休題。高畠さん晩年の論文・エッセイ投稿先はどのような処があったのかを調べる前に、どの程度収録もれがあるかを調べてみる必要があります。幾つかの指標に照らして、殆んど収録漏れがなければ探すほどのことはないからです。とはいえ、『英雄崇拝と看板心理』を編纂した時、編纂者の小栗氏は晩年の時事問題にふれたものだけでも二三冊にはなるということですから、当時の本の分量とはいえ、それなりに収録漏れがあるのは確実です。

そこで高畠さん晩年の主要投稿先である中央雑誌の『改造』と『中央公論』所載文章を指標として、『論想談』『英雄崇拝』とどれほどダブルかを調べてみると、以下のようになります。内容紹介を兼ねつつ、先ずは『中央公論』から。

「マルクスの坊主と袈裟」(T8.7)→『マルクス学研究』
「軍縮会議側面観」(S2.4)→『論想談』
「出版戦弱肉強食の辯」(S2.6)→『英雄崇拝』
「デモクラシーの馬脚」(S2.7)→『論想談』
「日曜と郵便」(同上)→未収録。ただし十数文字の短文アンケート。
「不徹底の敗北」(S2.11)→未収録
「贔負訳者を見る」(同上)→『自己を語る』増補版
「血の速度の現代」(S2.12)→未収録
「絶好の取組的興味」(S3.2)→未収録
「政党心理の解剖」(S3.3)→公開中
「士族の商法」(同上)→公開中
「大衆主義と資本主義」(S3.4)→『英雄崇拝』、公開中
「思想悪導論」(S3.9)→公開中
「警官論」(S3.11)→公開中
「四人四色」(S3.12)→未収録
「資本主義の功罪を論ず」(S4.1)→『英雄崇拝』

未公開中でそれなりの長さのあるものは、「興味的取組」と「血の速度」、「四人四色」と「資本主義の功罪」の四つです。この中、「四人四色」はタイプ済みですが、校正が面倒なので公開日時は未定です。内容的には新潮社、改造社、講談社、平凡社の出版社四天王の社主の優劣(?)を論じたもので、なかなか面白い話ではあります。「血の速度」は高畠論文のなかでは重要なものの一つと云われてますが(ここ一二ヶ月前に知りましたが、黒羽さんの論文に指摘されてありました。)、何故か単行本に収録されませんでした。別の機会に収録するつもりだったのか、じつは重要な論文でなかったのか、それは定かでありません。「取組的」は安部磯雄と大山郁夫氏の普選の対決の話。これもなかなか面白いですね。最後の「資本主義の功罪」は他の論文で触れられてある資本主義観と変わりはないので、急いて読む必要はないと思われます。

その他、公開中の長文論文が幾つかあります。これらは高畠さん往年の主張と基本的に合致しますが、『論想談』で断片的に指摘されていたに過ぎない性悪観とか毛のない玉蜀黍とかいう命題(?)が、社会の諸々の文脈に如何に組み合わされていたのかを知るには、それなりの意味があると思われます。

一方の改造の方は、創刊後の第一巻第五号からコンスタントに投稿してますが、今高畠さん最晩年の昭和元年以後に限りますと、以下のようになっています。

「右翼こき下しの記」(T16.1)→公開中
「ムッソリーニの思想と風格」(S2.2)→『ムッソリーニとその思想』
「労農帝国主義の極東進出」(S2.4)→『論想談』
「人は何故に貧乏するか」(S2.8)→『論想談』
「マルクスの「資本論」」(「大衆講座」の一)(S2.11)→未収録
「マルサスの人口論」(同上)(S2.12)→未収録
「英雄崇拝と看板心理」(S3.2)→『英雄崇拝』
「反動団体を煽動す」(S3.5)→公開中

未収録の中、「大衆講座」は其の名の通り、研究物の講座ですから、今から読んでもそれほど面白い読み物とは言いにくいものです。高畠さんも当時としては有数のマルクス研究者ですから、当時の講座物のレベルを知るには良いかも知れません。ただ高畠さんのマルクス理解ということになると、『マルクス経済学』と『マルクス学解説』がありますから、それほど重要とは云えません。また公開中の「反動団体」は通常の高畠節が見られますので、特に高畠さんを知る上で不可欠というほどでもないと思われます。

次に「ムッソリーニ」はタイプ済みですが、単行本の方との比較が出来ていないので、これも公開するかどうか未定です。とはいえ、高畠さんのムッソリーニ論文は幾つか確認できます。『ムッソリーニとその思想』に収録されているのは、『大調和』と『読売新聞』(未確認)とこの『改造』の論文だと思われますが、これ以外にも『大思想エンサイクロペヂア』という一大叢書の中の「ファシズム」、『春秋』に幾つか論文が見つけられます。『ムッソリーニとその思想』そのものが、研究者にあまり引用されておりませんので、これらは公開する価値があるかも知れません。一般に、高畠さんはムッソリーニそのものは余り高く評価しておらず、血の気の多い処が好きだっただけだとされてます。(概ね、田中氏もそういう味方をしている)私もそのように思いますが、兎に角これらは他の文献からも確認される必要があります。

とまあ、『中央公論』と『改造』だけでも、収録漏れの文書は結構あります。高畠さんの未収録論文は晩年に多いので、それを是非とも読んでみたいという私個人の欲求は大きいですが、単に高畠さんの思想なり主張を知るにも、もう少し著書収録に洩れた最晩年の論文も集めてみる価値を感じます。(此場合、高畠さんはなかなかの策士ですから、著書収録論文に於いても、その初出がどの雑誌で、如何なる文脈を見越して書かれたものかを知っておく必要はあります。ですから、その意味でも著書収録論文の初出を探す必要は出て来ます。)

そこで先ずは高畠著書の初出先を探ることで、高畠論文の多数掲載された雑誌を探してみますと、(当然と言えば当然ながら)以下のような分類になります。(これ以上の細かいところは、私には荷が重すぎる)

(1)高畠さん主宰の雑誌。ここに掲載された論文は、当然ながら著書に多く引用されてます。ただし大正15年の2月頃に、最後の身内雑誌、第三次『局外』が終了してしまいますので、最晩年の論文には取り敢えず関係ないことになります。

(2)中央雑誌。一口に中央雑誌といっても、幾つもの分野があります。『中央公論』『改造』『新潮』『平凡』『キング』などなど。高畠さんも、現代とは違い、当時は有名人でした。ですからこれらにも論文が掲載され、単行本の主要論文になっています。(キングには執筆していない)またこれらには総目次がある場合が多いのですので、そういうものは全ての雑誌をめくらずとも、大体の処は分ります。もちろん現物を確認した方がいいわけですが、私にも時間の限度がありますので、それは諦めることにしています。とはいえ、これらの雑誌も女性雑誌は未見のものが多くて、まだまだ穴が多くあります。(最近になって私の近辺に『婦人画報』の総目次(ゆまに書房から出ているもの)が入ったという話を耳にしたので、時間を作って調べに行こうと思ってます。)

(3)新聞。幾つかの論文は単行本に掲載されています。私の見た範囲では、『東京朝日』『大阪朝日』に僅かにエッセイがあるほか、『読売』には幾つか執筆してます。『東京日日』にもあるという話ですが、まだ確認はしてません。『報知』は調べる方法がないので諦めてます。その他、『やまと新聞』は、新聞社に高畠軍団が乗り込んでましたから、多数執筆しているらしいです。いつか国会図書館でもいったら調べて見たいと思います。中にはまま高畠さんの重要な発言もあるといわれてますが(未見ですが北原龍雄氏は『大阪朝日』に国家の指導理論をといたことがあったと指摘されている)、これらは一度は調べておく必要がありそうです。

(4)身内雑誌。高畠直系といわずとも、大きく関係した雑誌であれば、多数載っております。私の知る範囲では、『随筆』『春秋』あたりが、高畠さんが楽しく論文なりエッセイなりを書いているようです。何れも相当高畠さんの意気のかかった雑誌です。他に新興の総合雑誌『経済往来』にも多数投稿してます。これを身内雑誌に入れるのは問題で、実際は全国誌なのですが、出来て間もないころなので取り敢えずここに置いておきます。高畠さんとの関係でいうと、後に日本評論社が改造社と経済学全書で争った時、高畠さんは日本評論社(『経済往来』を出している出版社)に肩入れしたらしく、そこで絶筆の『マルクス経済学』を出してます。因みに『経済往来』ではxyz氏による「高畠素之論」も出ています。これらの雑誌収録論文には、『論想談』や『英雄崇拝』に多数掲載されています。これらの他、私は未見ですが、松村梢風氏の同人雑誌『騒人』にも投稿しているらしいです。松村氏とは親しかったらしいので、それで投稿したのでしょう。となるとこれも調べる必要がありますが、今現在では調べるのが難しいですので、当面は諦めざるを得ません。

傾向的に言うと、全国誌レベルの雑誌に寄稿した論文は、単行本所収文書の中、比較的研究的な方面が多いようです。(あくまで晩年)それに対して、新聞と身内雑誌に投稿したものは、雑文的なものが多いようですね。どちらかというと雑文の方が面白いわけですが、こちらの方が雑誌の所蔵機関も尠く、調べるのに手間がかかります。

……と、あまり長く文を綴っているのも問題ですので、今回はこれで終わります。今年の頭ごろに書目一覧を公開して以後、随分変化があったのですが、機を見て更新し直さないといけませんね。ということで、私の知り得る高畠さんの書目は、まだまだ多くが未完成のままになっています。完成しないと思いますが……宜しければ気長にお待ち下さい。

今回はあと少し、高畠さんの知名度の上昇について書いておこうと思っていましたが、分量が多くなったのでこれで止めます。今週はちょっと忙しいので、来週更新できるかどうか微妙な処です。しかし七月中にあと一回は更新したいと思っています。

お時間があれば、また要らして下さい。それでは今回はこれで。

○6月26日(月)

第十六回:取り敢えず終了

こんにちは、一日遅れの更新です。

先週は夜中の校訂作業が上手く進んだので、週末は楽に過ごしてましたが、楽をしすぎて更新そのものを忘れていました。いやはや、何とも間の抜けた話です。

今回の更新は、『論想談』の最後の編「現代の悪制度」と急進愛国主義の理論的根拠の二つのみ。惡制度の方は完全版ではなく、暫定版です。悪制度の初出は、田中真人氏によると『週刊日本』に連載されていた「悪制度の研究」らしいということで、私も全てではないですが、部分的には確認しています。確かに両者は相当近似しているので、田中氏の云う通りなのだろうと思っておりました。

ところで、悪制度の中、誓願巡査という部分があって、これに三文字分くらい空白の場所があります。伏せ字のような××みたいなものもなく、印刷上のミスではないかと思われます。今回、私の手持ち本の二冊と近くの公立図書館の一冊の計三冊を確認しましたが、やはり空白のままでした。人文会出版部そのものの寿命が長く続いていないので、第二版は存在しないようにも思いますが、第一版は三文字空白のものが多いのかもしれません。

そこで早速『週刊日本』の誓願巡査(第十号)と比較したのですが、これは暫定版に挙げたような文字になっていました。全体的に『週刊日本』のものは砕けた表現が多く、論文として相応しくない言葉遣いが目立ちます。また改行部分が全く『論想談』と異なるという問題もあります。そこで引用部分のテキストと『週刊日本』とを照合してみますと、前後にある改行はそうとうズレがありますが、文字そのものは相当近似しております。それで私としては、ほっと一安心で、まずはこの三字でよかろうと判断しておりました。

ところが、ホンの数日前、「現代の悪制度」の初出が本当に『週刊日本』か否か、判断に苦しむ事態となりました。それでそちらを調べてからでないと、完成版として更新できないということになったので、取り敢えずは暫定版ということにして公開することにしました。初出論文の問題は、うまくいけば来週か再来週には判明すると思いますので、このままで問題なければ『週刊日本』と比較の結果、結論を出したいと思います。ただ別に初出が見つかった場合は、それと照合して文字を当てておくつもりです。何れにせよ『論想談』の完結にはいま暫く時間が懸かることになりました。

『論想談』の完結で思い出しましたが、本書冒頭に堤寒三の雑文と漫画があります。これは著作権の問題で公開出来ませんが、第二次『随筆』に見えるものです。

因みに私の方針として、私が初出を確認できる状態にあるものに限って、怪しい所を初出で確認しています。それができて完成として公開してます。ですが初出の分からないもの、また分かっていても確認のしようのないもの(どっかの大学にあって、一般人には見せてくれないもの、若しくは見せてくれても、途方もなくめんどくさいもの)、これらは確認したくても出来ないので、本書の校訂は本書の読解を通してのみを行うことにしています。

私手持ちのテキストファイルには(●)みたいな記号を打って、改訂する場所をすべて記しているので、後で確認するのはそれほど難儀ではありません。もっとも青空文庫のやっている/\みたいなものは、一律に省略してるので、確かめようがないですけどね。

もう一つの「急進愛国主義」ですが、これはテキスト作りに難儀しました。思いきってテキストだけを利用して、独断で句読と改行を行おうかと思いましたが、一応は『急進』所載のものと照合しておきました。これに加えて『国家社会主義大義』あたりと照合できれば好いのでしょうが、私は『大義』はもってませんので照合のしようがありませんでした。

そもそも「急進愛国主義」は講演の原稿か筆記かという関係なので、テキストには随分問題があり、『急進』には修正箇所と思しき箇所があって困りました。一応、公開しているのは私の独断で句読と改行を行ったものと、テキストを軸に『急進』との校勘を本文に擦り込ませたものの二つを置くことにしました。

ええ、予定では蓑田胸喜氏のことについて悪のりして書くつもりでしたが、再び忙しくなりつつあるので、今回はこのへんで終わりたいと思います。

また時間があればお立ち寄りください。次回は漸く「英雄崇拝」か「欲望の研究」に移る予定です。

○6月18日(日)

十五回目:三巨頭を終えて新企画へ(?)

ご無沙汰してます。

先ずは更新部分。『論想談』の労農帝国主義と文芸変形時評。宮島資夫の回想記(僅かな注釈入り)。以上、三つです。それとサイト説明の他、HPを若干変更しました。当初、ここは高畠さん関聯ともう一つ別のものがくっついて、二種類のものを公開していました。その為、総合窓口を設けていたり、ややこしい書き方をしていましたが、もはや削除したもう一つの部分を公開する必要性も時間もありませんので、遂に痕跡を削除しました。

しかし、何はともあれ、これで漸く『論想談』の終わりが見えてきました。タイプ完了から何年経過したことか……しみじみ。

とまあ、これはこれでよかったのですが、一つ問題が出て来ました。当初、本サイトは、『資本論解説』とエッセイ集三種(幻滅者・自己・論想談)と『批判マルクス主義』の三巨頭(?)、単行本未収録の晩年長編論文を紹介することを大きい企画としておりました。しかし三巨頭は残す所『論想談』中の一論文のみとなり、晩年未収録長編はまだあるとはいえ、私の知り得るものは殆んど公開してしまったのです。次はどういう企画を立ち上げようか。

その意味では、三巨頭を終わらせる為に、先行的に宣言して自身に強いてきたここ「更新日記」も、ほぼその役目を終えたので、これも止めるか否か、そこらへんも考え所です。

日記の存亡は問題ないので取り敢えず無視して、新しい企画案としては、初期の新社会までの論文を集中的に扱うか、第一次から第三次までの『局外』を中心にするか、それとも高畠さんの好きな『唯物史観の改造』にするかなど、幾つかありました。が、有力なものとして『新小説』の「社会時評」を考えてます。

最近、立憲政治と独裁と関東大震災との関係を考えていたりします。その関係上、「社会時評」が浮かんで来たのです。高畠さんは大正十三年の正月から翌十四年の二月まで、一ヵ月を除いて、『新小説』誌上に社会時評を連載していました。十三年の正月といっても、執筆はそれよりも前でなければならず、実際には震災の余波の漸く収まり始めた十二年の年末くらいだろうと思います。既に公開している社会時評の冒頭に、漸く戒厳令が解けた旨が記されていることからして(九月に解除)、概ねその直後くらいのことが実際に執筆時期であったろうと思われます。それで連載の終わるのが十四年の二月ということは、普選と治安維持法の成立直前に終えたことになります。なのでその間に、何か社会の推移について面白い観察をしてないかなあ~という期待があります。

まあ、次回は『論想談』の最後を終わらせる予定ですし(『論想談』最長の論文)、その次は予告だけで何週間もおいている「欲望の研究」と「看板心理」を片づけるつもりですし、まだ直ぐには新企画は始まりません。ですので、何かアイデアあればメールなりweb拍手でどうぞ。ただし私の持ってない資料とか能力を超えるものは無理ですけども。(『資本論』全部とか)

最後に補足二つ。

つい先日、面白い本を見つけました。(知らなかっただけですが)戦前の右翼扇動家というのか何というのか、いろいろ罵詈雑言を浴びる蓑田胸喜の全集が出ていました。2005年に第1巻が出たそうですが、全7巻か8巻だったと思います。書名は『蓑田胸喜全集』。本文はすべて写真版というか、影印というか、原資料を直接複写して切り張りしたようなもので、新しく活字印刷したものではありません。各冊に各論の解題とテーマ毎の解説がついてます。第一巻のものが総合解説のような感じになっており、略年譜もついていました。また最終巻に全巻を通した人名索引があります。精査したわけではありませんので確定情報ではないですが、最終巻は『原理日本』の表紙とか編集後記みたいなものもそのまま再録されていました。因みに高畠さん関係でいうと、第1巻に高畠さんを譏った文章が載ってます。(それ以外にも何カ所かあるものの、第1巻の部分が基本)飜訳思想を譏ったものでしたね。蓑田氏に関しては色々思う所もありますが、これ以上悪のりするとよくないので、これで止めておきます。

もう一つは、この前も書いた著作権です。高畠さんは問題ないのは前も言いましたが、高畠さんの回想記に挙げている人々は、七十年に完全に引っ掛かります。私としては七十年になる前に一度、公開して見たい気になってのことですが、保護期間が七十年に延びたら問答無用で削除します。色々と考え方はあるでしょうし、法律施行以前に行われたものは問題ないという考えもありますが、サイトというのは更新可能ですので、国法に従って速やかに削除します。

今回はこれで終わりです。宜しければまた来てやってください。

○6月11日(日)

十四回目:批判の対象範圍

一週間ぶりです。すでに一時間以上過ぎてますが、何とか間に合ったことにしたいと思います。

今回の更新は、論想談の論から貧乏と右翼、想から文壇社会学と鬼面の四本。及び意味もなく資本論第一巻の総目次。文壇社会学は今週まで風が吹かなかったようで、仕留めることができました。校正中、一番タイプミスが多かったのが文壇社会学、殆んど無かったのが右翼でした。貧乏は以前若干読み直したことがあったので、一箇所、当時と今とで校正方法が違ったときの部分だけでした。(拗音を小文字で書くか否か。今は全てテキストに依拠している)鬼面は普通でした。資本論の総目次は、全く意味がないですが、自己満足で表示してみました。

文壇云々も読み直してみると、それほど悪くない話しでしたね。と言うより、文壇を使って社会時評をしただけで、文壇の時評でも何でもないような気もしましたが、それはまあ高畠さんらしいというか、畑違いだからか、狙ったのか。

因みに「右翼の敗因」に出て来るエビ鯛主義という言葉。これは多分、『実生活』に載っている(らしい)、社会時評ではないかと思います。私は『実生活』を一冊たりとも見たことがありませんので、どんな本かも内容も執筆者も知らないのですが(白柳秀湖が主宰していて、左がかった本で、赤い表紙らしいことは別の所で読んだことがありますけどね)、高畠さんもよく寄稿していたらしいのです。

で、問題のエビ鯛ですが、高畠さんの文章は見たことないですけど、新居格が『解放』でロシアの飢饉に触れて、高畠さんが飢饉の国から金を巻き上げるのは怪しからんとか何とか言っていると紹介していたのを見たことがあります。新居格によると、高畠さんは飢饉に救済するのは構わないが云々、ということらしいですね。まぁ、本人の意識では善意で助けようという所、エビ鯛だといわれてはムッとするでしょう。特にそれが無意識のものなら。

そういえば、いつごろでしょう?民主党が出来る前、そこにくっついた何処かの党が、震災寄金を募ってそのまま使わなかったとかいうのが報道されてました。その党の言い分では、その事は素直に謝るから、こんど災害があったらそこに使うとか何とか言ってたような気がしますけど……党がなくなって、どうなったのでしょうね。大きい事件が多数勃発するので、どうも忘れがちになっていけませんねぇ。批判するにせよ、文句を言うにせよ、事件を覚えてないことには、説得力も何もあったものじゃないですから。

批判で思い出しましたが、最近ある本を読んでいて、ツクヅク有效的な批判というのは難しいと感じました。勘違い無きように云っておきますが、その本は高畠本でもそれ系統の本でもなく、ごく一般的な本です。それは主に歴史的な話しを紹介したもので、ある残虐な戦争(日本のことではない)を齎したのは、西欧に巣くう宗教倫理だとか何とかいうのがその結論だったと思います。而もその結論そのものは日本の先生の結論ではなく、その先生の読んだ海外の研究者の結論らしいという、よくわからん結論でした。

しかし、知識の偏っており、且つ少ない私のことですから、成る程ねぇ~などと勝手に関心していたのですが、その時の批判の範圍について、著者の云わんとする所とは違う所に、何か気持ち悪さを感じました。

要するに模式化すると、特定の歴史的事項を批判する場合、どこどこの国はこういう特徴があるから、こういう結果になったのだ、と言うような型のものをよく見ます。例えば、欧洲で魔女狩りが興ったのは、キリスト教的な考え方がそうさせたのだ、というものです。(この本の内容ではありませんよ)最も安易に典型化すると、何かの地域や国の特徴が、ある凄惨な事件を生んだ、ということにもなります。これは地域や国でなくても、組織でも構わないわけです。どこどこの官庁や会社は、なになにという体質だから、しかじかという悲惨な事件を生んだ、というあれです。

しかしこの批判される原因というもの、この原因の範圍を限りなく拡大すると、どうなるのやら。もはや批判としての有効性を失うのではないか。平たく云えば、人間だからそういうことをしたのだ、ということ――換言すれば、人間というのはそういうものだという所にまで責任の所在を拡大すると、もはやそこには批判の意味が失われ、人間の悲しい定めを是認したことになってしまうのではないか、とまあ考えたりしたのです。

もちろんある組織や国は特有のものだということは言えます。しかし同時に、特有の中を微細に見たなら、通有の部分が見えるもの。その逆もしかりですけどね。こういうロジック(?)は学者の得意とする所で、事迹間の特有を強調する必要があればそれを、通有を示す必要に応じてそれを用いるのですから、都合のいいものです。書き人本意の立場からすれば、それなりの論拠はありますが、どれほどその批判の範圍が有効なものか。且つその範圍とやらは、結局行き着く所、その人の生きた現実に局限されてしまうのではなからうか……

とまあ、誰でも知ってるようなことを、最近しみじみ感じましたので日記代わりに書いてみました。

ガラッと話題は変わり、今回、web拍手を導入して見ました。殆んど出入りのない所に無駄なことを……という罵詈雑言が聞こえてきそうです。しかしこれには理由があるのです。私はネタ系サイトによく行きますが、その時、メールで「お便り」するのは頗る抵抗があるので、先ずしません。というよりしたことがないし、するほどの必要も感じられない。そのかわり、拍手ですとお手軽なので、結構クリックしてしまいます。ではクリックしたらどうなるのか。設置したことのない私にはよく分かりませんでした。そこで、設置してみよう!という、安易な考えのもと、置いてみたわけです。

で……公開する前に、自分のハードのスペースで既に確認できるということを、登録して始めて知りました。じゃあ公開すんな、というまたまた罵詈雑言を浴びそうですけど、そこは折角なので、ということで設置しておきます。

web拍手の細かい主旨は、公式サイトをご覧下さい。検索するか、リンクも張りましたので、どうぞ。いちおう必要な部分だけ言っておきますと、こちらは誰が拍手したのか、特定できません。何人の人が何時に何回拍手してくれたか、が分るだけです。コメントを送れますが、当然、特定できません。拍手内容は公開できるそうですが、私はいちいちそういうことをするつもりは毛頭ないので、その点はご安心(?)を。

しかしこのスペースは、更新記録がてら、備忘録に設けたもので、別に私の所感を書く必要もないのに、毎回余計なことを書いてますね。而も初めのうちから。第一回の折りに、見なくて良い旨を宣言(!)したわりに、書いてる本人が読まれていることを予定しているという、明らかな矛盾が存在します。(さもなくば、わざわざhomeに赤字で更新日記を表示したりしないですから)我ながら苦笑してしまいますね。何ででしょうねぇ?私の性質として、何か勝手な寝言を書くスペースがあると、兎角余計なことをしてしまうみたいです。それとも、人間の性質ですかね。

次回もできるだけ早めに更新したいと思います。お暇な時間がありましたら、たまには来てみて下さい~

○6月4日(日)

十三回目:著作権など

こんばんは

何とか一週間で更新ができましたね。内心ほっとしてます。今回の更新内容は、論想談の想の冒頭二論文、大杉栄を扱った論文(初期のもの)、マルクス学研究第二章、及び回想記二本になってます。それと若干、初出を補訂してます。マルキシズムと国家主義はhtml化しました。内容は全くpdf版と同じです。予定では文壇社会学までが一区切りなので、そこまで進めるつもりでしたが、力及ばず諦めました。とはいえ、次回に廻すかどうかは全く別問題です。次回は次回の風が吹くのです。

マルクス学研究は高畠さん初期の研究書ですが、その収録内容たるや、以後に刊行される著書に拡張して収められることになる論文が多いようです。そのこともあり、特に全文をテキスト化する必要も感じなかったのですが、第二章は幾分趣が違うようなので、今回公開してみました。内容的にどうというものではないですが、高畠さんのマルクスに対する距離の取り方がよく出ているように思います。

今回は第二章のみということで、初出論文も分ってますから、若干立ち入って比較してみました。注記が59ほどあると思います。全体として、このあど言葉を漢字にするか否か、句読点処理、及び振り仮名・傍点などの異同に止まるようですが、最後に次のような違いがあったのは、なかなか面白い発見でした。

要するに、僕はマルクスの人物を愛慕し、その哲學・社會學説を棄て、其經濟論の本質を全部受け入れると云ふ、一種異樣の自由批判的態度を以てマルクスを利用してゐる。(テキスト)

要するに、僕はマルクスの人物を愛慕し、其哲學・社會學説を棄て、其經濟論を全部受け入れると云ふ、一種自由批判的態度を以てマルクスを利用してゐる。(初出)

「その」は問題なし。高畠さんはむかし、比較的こそあど言葉は漢字で書く傾向にあったようですので(原稿のスペースの問題かもしれませんが)、再収録にあたり平仮名になおしたのでしょう。最後の「異様」は微妙ですが、意味的にもとの文章が崩れるほどではないような気もします。しかし「其経済論を全部受け入れる」を「其経済論の本質を全部受け入れる」では随分意味が変わります。

「全部」なんて言葉を使ったけども、経済論を全部受け入れる分けにもいかないし、さればといって「全部」を削るのも嫌だしということで、「の本質」という限定句をつけてお茶をにごしたのかね、等と、しょーもないことを考えてしましました。ま、毛を吹いて疵を求める類の話ですから、余計な御世話も良い所でしょうけども、校正しているとこういう面白さにであうことがないでもない、こともないこともない。

そう云えば、著作権法改正の関聯で、こういう著作物もパブリックドメインに入るのが死後七十年になるかもしれませんね。高畠さんの場合は七十年でも問題ないですが、白柳秀湖とか辻潤はアウトですね。尤も、当方としては――特別に役に立ってるサイトでもないのは自明だが――閉鎖せざるを得なくなったところで、何の影響もないのです。私個人が夜中に(?)、フフフフとほくそ笑んで読むには、何も問題ないのですから。

これにつき、七十年延長の反対論者に正面から反対する気は毛頭ない。しかし著作権で埋もれた作品には価値があり、価値があるのを一部の<銭もうけ作品>のために犠牲にするのは惜しいというのは、如何なものか。第一、価値があるほどのものなら、商売にでもすべく、利用してみてはいかがか。

世の中は力がないとどうにもならない。力で押し切られたら、結局こちらも力を持たないといけない。それでこちらが力をもてば、こちらの主張が通るだろう。それなら七十年がいやだと云ってみた所で、結局負ければ、七十年になり、勝てばならないだけではないか。要するに、争い方がヘタクソか、はなっから独善的な考え方だったかで、力がないから負けるのだ。無論、力というのは暴力とう意味だけではない。世界的(とは思えないが)な草の根の力であれ、権力的のそれであれ、弱ければ負けて、云うことも通らない。強ければその逆になって、こっちは嬉しく、あっちは悲しい。それだけだろうに。とはいえ、あんまり無理しすぎると、後で手痛いしっぺ返しが来て、滅茶苦茶になってしまうので、そこの所の手加減は重要に思いますがな。

土台、今まで無くても困らなかったような文化財が、今後無くて困るというのも変なはなしだ。更らに、そんな埋もれた財産を、何で一部の人間だけが知っているのか。知らなくても誰かが同じことを見つければそれでよし、必要になってから誰かが埋もれた財宝を「発見」してもそれでよし。何も問題なかろう。自分だけが価値のある埋もれた財宝を知っているなどは、思いも寄らぬ暴論だ。

無論ここには、折角こっちが努力してるものを止めさせられるの甚だ癪だという、商売特許とスレスレの間柄という、囲い込み根性はないと前提しての話しだ。また一々著作権保持者に相談にいくのも面倒だし、嫌だ。勝手にしたい。というのも同断。そうでないと、話は複雑になってしまい、感情論になってしまうから。

とはいえ、諸種の考えを許容するのが「民主主義」らしくて宜しいので、兎にかく、議論はしてみる価値はあるかもしれない。併し世の中が盛り上がらず気にくわないなら、責めて盛り上げるくらいの努力は必要だろうさ。盛り上げる方法を考えるのが苦手なら、こっちの主張が通らないのも亦、不可避なことではないか。

それに土台タダというのは、予想外に高価な買い物になるものだ。例えば、この私のサイト。何度もいうように、あろうがなかろうが、何も問題ないサイトだ。しかし巧い宣伝をして、時流に乗るようなこともあったりして、専売特許的に利用される事態が起こったとする。ここで、私は通常通り、公開していたとする。即ち無料公開だ。で、私は影でコソコソ笑うわけですな。何せこのサイトには真っ赤な嘘が書いてあるのだから!と。

無論、そんなアホなことはしてませんよ。第一それをすれば、誰も来なくなりますからね。しかしそれなりの資料を揃え、それなりの論拠を示されたものとして存在する、厖大な資料群の中に、而も誰もが容易には読み得ないような重要資料の中に、意図的に込められた嘘が書かれてあっても、誰も気付かない。

この手のものは、中世(近代か?)の魔法研究書に聞く所だ。ぶっとい立派な研究書、そこには当然の如くご立派な参考文献もあり、引用注釈もついている。所が人が、参考文献の書物を探そうにも、肝心の本が見つからない。稀覯本なのか、なるほどなるほど……などと思ってはいけない。見つからないのは当り前、その研究書は、一から十まで、真っ赤な嘘なんだから。(ファンタジーだなぁ)

確かに商売でも、気付かない所でそれをするということは否定できない。特に独占状態だと、稀覯書の類と同じく、普通は真偽の判断ができない。併し商売というのは、それがバレると死んでしまう。続けられなくなる。金儲けのためにしている商売が、それで喰っていけなくなる。騙す為に嘘をして而してその為に死ぬなどは、商売道の本末転倒だ。正常な感覚であれば出来ないし、しない方が得だ。

ところがタダは違う。タダは元手の出費が提供者にすべてかかっている。提供者は損をしてタダで提供している。そこでは被提供者がどれほど甚大な被害を被っても、提供者には何等被害はない。せいぜい、そうなることを見越して居って、影で舌をべろっと出してるだろうさ。タダの怖さなんてこんなものじゃないか。

と、何となく最近の反対運動を見ていて思ったりしたので書いてみる。他にも意見がないではないし、タダ公開というものは一種自己犠牲的な感情がつきまとうので、上の如くはならない場合が多い。が、ま、私の発言に影響力があるとは思えないし、与えようとも思わないので、ちょっと発言してみました。後から読み直せば、当時はこんなことを考えていたのかー、へぇー、バカだなーと思うのが関の山。

扨、次回の更新も相変わらず未定ですが、お時間が在ればどうぞ来てみて下さい。たまには更新してると思います。

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