社會時評(大正十三年十二月)

高畠素之

勤儉と浪費

十一月十日から一週間、『勤儉週間』なるものが全國的に行はれることとなつた。浪費を節約して、勸銀賣出しの復興公債でも買へといふのである。

それに就いて、この間、深川區役所で區内の各町長を呼びあつめ、勤儉奬勵委員を命じたところが、町長連は『この不景氣最中に奢侈の抑制や鹿爪らしい勤儉の奬勵が出來ますか。こんな行詰つた生活を營んでゐるのは、お互い臍の緒切つて始めてです』と斷つたさうだ。

大多數の國民は、言はれるまでもなく極度の節約を餘儀なくされてゐる。そこへ奢侈品課税だの勤儉奬勵だのと、いやが上にも消費の節約を強ひやうといふのだから、深川の町長諸君ならずともつむじを曲げたくならう。百五十萬圓を投じた大倉男米壽の賀筵*1で、『男の今回の擧式は國家的にも國際的にも意義あるものだ』などと加藤首相が述べてゐる今日、一般國民にはどんな切詰めた生活をしろといふのか。

節約も結構だが、今日のやうに節約の押賣をされると、そんなら草根木皮を喰ひ、樹下石上に眠る原始生活に還れといふのか、と直りたくなる。欲望の分化するに從つて、人類の消費生活が次第に複雜となり豐富になるのは知れ切つた話だ。奢侈の贅澤のといふけれども、消費生活の向上と文化の發達とは常に表裏するものである。換言すれば、社會的水準たる生活が、なた豆煙管で刻煙草を燻してゐる状態から、紙卷煙草を常用する状態へ移るのを文化の發達といふのだ。あまり消費生活ばかり眼の敵にして貰ひたくないものである。

勤儉奬勵といふのは、社會的水準たる一般國民の消費生活を抑壓し、社會的水準生活を營む必要な勞銀を壓迫して、一方に勤勉させて勞重力の消費をヨリ多からしめやうとする蟲のいい希望なのである。けれども、勞働階級に依つて大部分を占められてゐるところの國民が勤儉を力行することに依つて増殖する餘剩價値は、一體どうなるのか。それは悉く大倉その他のブルヂオアの手に集中するのではないか。

大倉の賀筵において、加藤首相が述べられた盛大なる賀筵の國家的國際的意義といふものは、一體どこにあるのだらう。日本のブルヂオアもかかる盛大な賀筵を開き得るほど巨大なる餘剩生産物――富を所有することが出來るやうになつた、といふところにあるのではないか。若しさうだとすれば、勞働者の勤儉大に奬勵すべしである。因果は巡る小車といひたいが、勞働階級の勤儉はブルヂオアの消費を生むのだ。勤儉奬勵の嚴しいお達しが効果を奏したならば、いづれ百五十萬圓はおろか、一夕の賀筵に三百萬四百萬の巨大な富を投じ得るほどの、『意義ある』現象があらはれて來るであらうから。

學生と軍事豫備教育

政府では、中等學校以上の卒業生の在營年限を短縮しやうと協議してゐる。在營年限が短縮されるかはり、在學中に軍事豫備教育を受けることとなるのだ。

この制度が實現すれば、一年志願をするまでもない、專門(1)學校の卒業生は八ケ月在營で濟む。學校へも行けないプロレタリヤの子弟なら、二年もかかるところである。それを一年以下六ケ月以上のところで濟ませられるのみならず、軍事教育は所謂體育の一助にもなる。教育家や學生は喜んで贊成するだらうと思ひきや、事實は全く反對で、彼等は今しきりに反對運動を始めてゐる。

十一月十二日には、東京の各大學や專門學校の學生が集り、全國學生軍事教育反對同盟を組織したさうだし、教育家側の教育擁護同盟とやらも『學問の獨立、研究擁護』のために反對運動を始めるといふことだ。彼等の中には、馬に乘つたり、鐵砲をかついだりする事は學業に差支えるといつてゐる者もあるやうだが、學業に差支えるのは必しも軍事教育ばかりでない。運動興行に沒頭したり、アメリカ三界まで野球巡業に出かけるなど、學業に差し支えぬ行爲ではないやうだ。學業の爲めならば、軍事教育よりも先に、かうした遊戲を愼んで貰ひたいのである。

彼等が軍事教育に反對する根本的の理由は、決して學業に差し支えるなどといふ事にあるのではない。軍事教育に伴ふ所謂軍國主義的空氣といふものが嫌なのだ。彼等のブルヂオア主義、彼等の淺薄なメリケン的デモクラシーが所謂軍國主義を嫌惡するのである。軍事教育の施行を軍國主義の君臨と感じ、それに依つて學問の獨立や研究の自由が犯されると考へればこそ、學問獨立研究擁護などと騷ぎたてるのだらう。

今日の學生諸君は、徴兵檢査に合格したらすぐ一年志願することが出來るのだらう。第一、合格などといふ迂活(?)な運命に、矢鱈遭遇しないつもりかも知れぬ。しかし、兵役の義務は原則として果さなければならないものだ。それを免かれ得るのは例外である。何しろ、プロレタリアの子弟の大半が、二年間つとめてゐる兵役の義務を、學校卒業生であるが故に僅かな期間で濟まして貰へるのである。軍事教育位ゐ、どうせ野球のラグビーのと學業の障害の多い折柄だ、だまつて聽從すべきである。

軍事教育の施行に依つて、學問の獨立や研究が浸害(2)されるといふのは、甚だおかしい話である。彼等の學問、彼等の研究は、兵役の義務從つて軍事教育に、全然聽從出來ない傾向のものでもあるか。――要するに尾崎行雄の淺薄なメリケン本位非軍國思想に動かされてゐるのであらうが、この分では軍事教育を施す前に、彼等の迷妄を破る豫備教育を與へる必要がありさうだ。

兵士の民家宿泊

陸軍では何時も演習のときには、兵士を地方の民家に分宿させてゐる。詳しいことは知らないが、村役場などで中ば強制的に、民家へ兵士を割振つてゐるやうだ。

武人政治の餘映を受けて、日本の民衆は軍人に對する特別の崇拜を持つてゐた。從つて兵士の宿泊も、始めの間は頗る光榮がられてゐたのである。けれども兵士だつて普通の人間なのだから、いろいろ不都合な行爲もある。それに軍人崇拜の夢もだんだん醒めてくるし、非軍國主義の何のとブルヂオア自由主義的な新思想も蔓つて來るので、兵士の宿泊は次第に嫌がられて來たやうだ。けれども、今日まで露骨に兵士の宿泊を謝絶するものはなかつたらしい。ところが今回の大演習で、石川縣では斷然兵士の宿泊を斷つた家が二三軒あるといふ。

しかし、演習の際に兵士を民家へ宿泊させるといふのは、決して策の得たものでない。演習といふからには模擬戰爭なのであらう。戰爭の眞似ならば、天幕でも張つて宿泊するのが當然ではないだらうか。天幕生活も幸いには違ひないが、戰爭は元來あまり樂な仕事ではないのである。演習なら戰爭の眞似らしく、相當の苦痛を忍んで見ることだ。戰地には酒肴を用意して宿泊を待つてゐる民家など無い筈だ。

平生享樂の機會に惠まれてゐない兵士たちには、演習に出て民家で饗應されることを、ひそかに期待する氣持があるらしい。そこで饗應の仕方が惡いと不平を竝べることにもなるのである。無理もないことだ。けれども、演習は遊びではないのである。享樂は享樂として與ふべき策もあらう。常に適度の享樂の機會が惠まれるやうに、彼等の待遇を改善するなり何なりして、演習時の享樂的な期待だけは抱かせないがいゝ。

その上兵士が民家へ宿泊することは、多かれ少かれ民家の生産的勞働を阻害する。今日の多くの民家では、仕事を放擲して兵士を歡迎する餘裕を持たないのだ。それぞれ個人的な生活に沒頭してゐるのだから、成る可く彼等を煩はさないやうにするがよからう。

まだ軍人崇拜の夢が、地方の民家に殘つてゐるなどと思つてゐたら間違ひである。斷然兵士の宿泊を斷る人のあるのを見て、天下の秋を知るべきである。ブルヂオア自由主義的な『新思想』は、地方へも侵潤(3)してゐるのだ。兵士の民家宿泊は、却つて彼等の淺薄な新思想を誘發し、軍隊そのものに對する反感を惹起するであらう。時勢は絶えず進んでゆく。演習に附隨する兵士の遊戲氣分を絶滅する爲ばかりではない。かゝる時勢に適應する上からも、兵士の民家宿泊だけは止したがいゝと思ふ。


底本:『新小説』第二十九年第十二號(大正十三年十二月)

注記:

(1)專門:底本は「専問」に作る。
(2)浸害:ママ。
(3)侵潤:ママ。

改訂履歴:

公開:2007/06/17
最終更新日:2010/09/12

inserted by FC2 system