社會時評(大正十四年正月)

高畠素之

良狗煮らる

レーニン正系の勞農官僚連と、トロツキーとの反目を聞くことも久しい。今度はどうやらそれが表沙汰になつたらしく、捕縛の追放のと、大分穩やかならぬ風説が傳へられる。國際や合同の通信を、全部的に信用する譯にも行くまいが、如何樣ありさうな噂である。物議を釀した『十一月革命の經過』といふ本は、どんな内容のものだか不明だが、これは謂ふごときレーニンの攻撃そのものよりも、現在の官僚連に對するアテこすりを主眼としたらしく思はれる。第三インターナシヨナル議長ヂノヴイエフ、勞働國防會議長カーメネフ、共産黨委員會總務スターリン、この三人がムキになつてゐるところを見ると、直接間接に、勞農政府現在の政策に憎まれ口を叩いたことが窺はれる。

元來トロツキーは、先刻御承知の如くメニシエウヰーキ出身である。既にその生立を異にする上、當人にして見れば、レーニンと竝稱された大々名の氣だから、三羽烏の頤使に甘んずる筈はない。陸海軍人民委員長として、例の赤衞軍を後盾にし、いひたい事をいつて退けるやうな振舞もあり、レーニン在世當時からソリは合はなかつた。その死後、ラデツク、ピヤタコフ、プレオブランヂエスキー等の非幹部派と策應し、共産黨大會の掻きまはしをやつたこと、これも御承知の通りである。武運拙く、『プチ・ブルヂオアの變節者』なる名稱を頂戴した後は、温泉行とシヤレたが、相變らずの惡聲を放つてゐた。それも露はな言葉を避け、英露交渉の成立を急ぐ幹部派を嫌がらせる目的から、盛んに勞働黨及び第二インターナシヨナルの攻撃をするといふ調子であつた。蛇の道はヘビのヂノヴイエフなんかが、その底意の見えない道理はなく、公然とトロツキーの人身攻撃を始めた。そこへ持つて來て、今度の筆禍一件である。レーニンの遺骨を舎利扱ひにする正系派が、名分と實益を兼ねる排斥運動を起すは當然である。

こんな事件の經過はどうでもいゝが、正系派のトロツキー排斥の『理由』は、どうも腑に落ちない點がある。カーメネフのいふところに從へば、トロツキイズムはメニシエヰズムだから、ボリシエヰキの政策と一致しないさうだ。亡命前のトロツキーはどうあらうとも、十一月革命後の彼れは、勞兵階級の獨裁主義を強調支持してゐた。その立場こそ、正しくレーニンがプレハーノフと分離した時の主義と合致するものではないか。即ちボリシエヰズムそのものの正系を代表する者ではないか。晩年のレーニンこそ、實はボリシエヰズムの變節者である。現在の三頭政治は、より以上の變節である。昨年の一月と五月の大會に於けるトロツキーは、三頭政治のメニシエヰズム化を痛撃してゐた。尤も他の一面には、『黨とは各分派より成る渾一體だ』といふやうな、分權主義者としての彼れも發見されるから、その段はどつちもどつちである。誰れか烏の雌雄を知らんや、で濟ましてしまへば定石だが、この事實から見ても、如何にレーニンが偶像視されてゐるかゞ窺はれる。レーニンズムに反するといへば、獅子の前のヘーソク同樣である。そのレーニンズムも少數勞農官僚連の手前勝手な解釋で決定するもので、御神體がどうあらうと關係がない。共産主義はかくして宗教となり、レーニンはかくして基督となる。トロツキーは差し詰め、ローマ教權に反抗したルーテルかカルヴインの役柄でもあらうか。

レーニンをミイラにしたの、骨を分葬するの、幾百十の銅像を樹てるのといふ話も、唯物史觀を奉ずる共産國家だと思へば滑稽だが、ギリシヤ正教をレーニン教に置き換へた國の出來事と思へば、何の不思議も變哲もあつたものぢやない。

高利貸の打算

暴力革命によつて出來た政府だから、隨つて法的根據がないから、勞農政府は正式政府として認めぬといふ議論は、その當初に於ける各國政府の意見であつた。その中に、『事實上』の政府だから、といふやうな苦しい辯解をして、大抵の國は承認するやうになつた。段祺瑞を最高執政者とする支那の政府も、同樣な議論の適用を受けねばならぬ筈だが、この方は『赤』の危險でないといふところから、無條件的に各國政府の承認するものとなつた。一方、長江筋の督軍も、呉佩孚を始め段擁立に贊成し、筒井順慶として惡評高き馮玉章は引退を宣言し、野人張作霖また中央に野心を棄て、八方十方うまい具合に収つた。これで支那は、内外共に表面はどうやら和平統一の體である。その表面がどれまで裏面の眞を反映してゐるか不明だが、それはそれとして不問に附する。だが心配なのは、財政上のやり繰りをどう處置するかである。

鹽税剩餘金や北京入市税等の、月額三百萬元の定収入を以つてして、なすべき山の如き仕事に手のつけられぬこと、これは素より明白である。一部財閥の援助や、奉天からの仕送りや、或はもつとタチの惡い強制集金法を施したところで、どうせ目先の間に合せに過ぎまい。依つて、歴代政府の轍を踏んで借金製作と出ることであらう。かゝる機運に突け込んだか、つけ込ませたかして傳へられるのが、ドーズ案の支那的應用策である。

(1)もドーズ案なるものが目論まれたのは、ドイツの産業復興を目的とするためでも、戰勝國の賠償収入を可能ならしめるためでもなく、寧ろ『黄金の洪水』の處置に困つてゐた米國が、遊金を貸付けて金利引下を策するといふ資本家的打算に出でたものである。英佛に對する戰時貸付幾百億といふ金も、同樣の理由に基づくものであつた。その故智を支那に應用しようといふのである。この案はモルガン財閥の手先たるドーズが、同じく考案したものだといふ。つまり、ドイツ國民を稼がせるだけ稼がせ、破産しない程度で儲けをカスらうといふ高利貸根生を、露骨に支那に向けて來た譯である。

列國雜多な借用證書を、モルガンのそれに書き換へさせようといふだけ、本物のドーズ案より慾が深い。無擔保で貸付ける筈もなし、相當以上の利權と交換の上であるから、貸し倒れに遭ふ心配は毛頭ない。西原借還の解決を要求し、還すには還すが、それには元手として五六千萬いるから、それを先づ貸して呉れなどと尻を捲くられるのは、世帶の遣り繰りに困る日本ばかりである。まさかアメリカを、その手でナメる譯にも行くまい。

都々逸の文句ぢやないが、刀で殺すばかりが殺すのではない。侵略主義だつて、何も軍國主義の形を取るとは限らぬ。金でツラを張つて、肉も骨もシヤブルことの方が、どれだけ侵略濃度が上か知れない。高利貸アメリカは、正にその適例である。平和のデモクラのが聞いて呆れる。

根まで枯らす

クーリツヂが音頭取りとなつて、第二回の軍縮會議を催すといふ話がある。今度は補助艦を始め、陸軍及び商船の比率を決する目的だとか。而もその比率は、第一回の通り、五、五、三を事後承諾的に強制するつもりらしい。冗談ぢやない、日本だつていつも、柳の下の鰌になるばかりが能ぢやない。

元來、第一回の軍縮會議の振れ込みは、太平洋の平和を確保するといふにあつた。ところで英米二國は、大西洋の防備も必要だからといふ條件を以つて、その海岸線を算定に加へ、日本の三に對する五を決定したのである。併し、大戰後の大西洋は、何等將來の不安を抱くに足るべき原因が殘されてゐない。隨つて、日本に對する英米の二の優勢力は、スエズ、ダルダネルス、パナマ等を通路として、豫行演習である。それが軍縮を提議するアメリカの平和主義である。

一方、棒組のイギリスはと見れば、保守黨政府の成立と共に、マクドナルド内閣が無期延期を聲明したシンガポール。據地計畫を再生させ、いはゆる『東方の砦』を完成せんとしてゐる。最近のエヂプト強壓は、その下準備と見るを得る。元來ならスーダン地方は、エヂプト獨立と共に軍制を廢止すべきものであるが、大西洋と太平洋の唯一通路たるスエズ運河を擁する意味で、依然として軍事支配を棄てなかつた。のみならず、一總督の暗殺を理由として、スーダンに於けるヱヂプト軍隊の撤兵を要求し、完全なるその支配に改めたといふのは、尨大な太西洋の海軍力を太平洋に集中する日のため、豫め基礎工事を施したのに外ならぬ。つまり、シンガポール根據地建設の實を附與したのである。これで脅威を受けるのは、今騷いでゐるフランスやイタリーではなく、實は日本そのものである。いつでも太平洋に集約し得る。お互樣の縮少なぞと考へるのは滑稽で、日本は倍舊の危險を太平洋に迎へたのである。その上、補助艦を始め、陸軍、商船まで同樣の比率を適用されるなら、事實上の戰勝國たる待遇といふしかない。それも英米に、軍縮的氣運でもあるといふものか、大演習計畫の大根據建設のと騷いでゐるのだから、全く人を笑はせる。

自慢ぢやないが日本などは、ワシントン會議の『精神』を尊重しすぎて、議會の協贊を經た八々艦隊計畫から、巡洋艦二雙、驅逐艦十三雙、潛水艦二十四雙を抹殺してゐる。にも拘らず、太平洋に於て日本は英米を脅威する、などと勝手な惡口をいはれてゐる。ところでアメリカは、この一月から九月にかけ、十二雙の戰艦隊、四雙の輕巡洋艦隊、三十六雙の驅逐隊を中心に、水雷敷設艦四艦隊、潛水艦六百六十九雙といふ艨艟を浮べて、ハワイ及び濠洲に大演習を行ふのである。誰れを相手でもない、萬一の場合の日米戰爭に對する西狹撃の日本は、資源薄く土地狭く、せめて軍隊でも強くなかつたら、獨立國の面目を保ち得ない國状であるが、形勢は正に右の通りである。

揚句の果に、第二軍縮などといふペテンに掛けられ、羽も翼もむしり取られたら、どこに立つ瀬を望まれやうか。ハイカラ連の尻馬に乘り、平和の非戰のといつてゐられる身分ではない。わが親愛なる日本人よ、そこの道理を考へて呉れ!

章魚の蟲喰ひ

義務教育費國庫負擔金増額期成同盟會といふ、法性寺入道式な會が出來た。これは全國町村長會、帝國農會、帝國教育會の聯合に成るもので、地方財政の疲弊を救濟する目的から、その運動を起したのである。

義務教育と稱するからには、その費用を國家が負ふべきだといふ議論は、前々から一般に行はれてゐた。無論理屈として、筋道の通つた話である。しかし、目下の地方財政が疲弊してゐるから、國庫負擔金を増額せよといふのは、どうも辻褄が合ひ兼ねる。國庫の金と雖も、天から降り地から湧いたのではなく、税金といふ形式で、直接間接に國民各自が持ち寄つたものに外ならぬ。その限りに於て、國庫の負擔が増大すれば、國民各自の腹が痛む結果となる。隨つて、國民各自に取つては、國税の名に於て徴集されようと、地方税の名に於て徴集されようと、腹を痛める味に變りはないのである。尤も、現在のところでは、國税負擔額が過重なため、地方財源捻出の餘地がないから、國費を振り向けて呉れといふ要求らしいが、それにしたところで、結果は同じ話である。

村長とか農會議員とかは、地方税輕減によつて、直接に自己の手腕を誇り得る。それがため、國税の名に於いてなら、如何なる苛斂誅求も拘るところでない。といつた風の打算が働いてゐる。隨つて、實質上の國民各自の負擔がどうあらうと、國庫補助増加による地方税輕減と來れば、町村長及び農會議員等の功績は成立するのである。地方民各自にしたところで、國税の負擔が目前の恩惠として反映すること少ないから、地方財政の大部を占める教育費にでも振り向けられれば、丸儲けをした了見にもなるか知れぬ。しかし、それがため實質上の負擔が増しても、一向に御存知はない。盆暮のボーナスを貰つて、月給取りは雇主の温情に感謝するが、そのボーナスが毎月の月給から、割勘式に天引されてゐることは忘れてゐる。地方民の心理も、謂はばこの月給取の場合に等しい。お目出度すぎるといふのは、こんな時に使ふ言葉である。

そんなことはいいが、政黨屋連(2)がかかる心理に突け込み、鹿爪(3)らしく教育費補助問題などと騷ぎ立てるのは、實に怪しからん話である。出せ出せぬで、三派と政府が啀み合つたり、改めて憲政會と政友會が角目を立てたり、やることが白々しいだけ癪に障る。鐵道は引け、河川港灣は改修せよ、苟くも黨勢擴張の材料になりさうなことは、三派三勝手に政府を強要し、それで整理緊縮も糞もあるもんか。その上、教育費補助となれば、増税でもするしか道がなからう。這般の理屈を知り過ぎる程、知つてゐながら、尚ほ且つ『地方財政の救濟』を口にするところ、そこに職業政治屋の圖々しさがある。

役人の智慧

行政整理の結果、二萬人の首が歳末の街に横つた。政府はその失職者の善後救濟策を、公私の紹介所に一任して涼(4)しい顏である。紹介所は紹介所で、『求人開拓デー(5)』などといふ辭書にない文字を考へて、就職希望者の相談に應じてゐる。無論、それは單なる『相談』に過ぎない。この世智辛い時節に、首を刎らばとて拾ふ醉狂者は見當らぬ。求人は無責任に開拓しても、どうせそんな鹽梅だから割り振りがつかず、逆戻しに政府へ泣きついて、何とかして呉れと頼み込んでをる。何とか出來る位なら、最初から政府は首にしなかつた筈である。ここのところ、押問答の幾變轉を見た末、結局、智慧だけ借さうといふことになり、紹介所に與へられたのは例の紹介法である。紹介所の組織を改め、手續、方法の一切を考案して、これでどうにかして呉れといふのが、政府の智慧を絞つた最後ツ屁である。後のところは、一切紹介所委せといふのだから、智慧にして智慧に非ずである。

求職者の捌け口がつかぬのは、何も紹介法が完備してゐない爲ではない。手續や方法を如何に遺洩なからしめたつて、肝心の雇入希望者が現はれて來ない限り、どうとも致し方のない問題である。政府と紹介所が、目前に困つてゐるのは、その雇入希望者が出て來て呉れないためだ。雇入希望者がザラに轉がつてゐる程なら、開拓されるまでもなく、求人の處置に困ることはない理屈である。下司の智慧にも程がある。紹介法が議會を通過し、やがて施行されやうとする頃には、退職賜金は愚か、恩給年金まで高利貸の手に渡り、食鹽注射も手遲れの時であらう。

もう一つ似たやうな話に、十二月一日から施行された小作調停法案がある。調停法がなかつたから小作爭議が頻發した譯ぢやなし、あつたからとて未然に防げるものでもない。ただ起された爭議を、トコトンのところまで行かぬ前に、何とか彌縫策(6)を講ずるだけの機關である。隨つて、それとしての多少の意義はあるが、どうせ調停機關があるからといふ氣で、起さなくていい爭議を起させる例もないではない。その點、功罪半ばするともいへやう。どつちにしたつて、法律知識を土臺として役人の考へたことであるから、大したものでないことは事實である。

その大したものでないものを、世間では大したものに考へてるやうに見える。刑法第何千條まであつても、泥棒のタネは濱の眞砂と共に盡きぬ。況してや、一片の調停法で爭議の原因が芟除される筈はあるまい。その道の商賣人なる總同盟あたりでさへ、甲府地方裁判所に屬する調停機關が、委員の選定に地主側を有利ならしめたといふ廉で、恰も小作人運動の前途が暗黒なるかに騷いでゐる。時として、政府は資本家の犬だと公言する總同盟幹部が、政府の造つてくれた機關に、資本家竝みの扱ひを受けなかつたといつて、今更らしく泡を飛ばすにも當るまい。

世が世なら、調停機關何が惡い、とでもいひたいところであるが、平素の廣言を忘れて隨喜してゐるのを見ると、買ひ冠つちやいけない、とナダめてやりたくもなる。


底本:『新小説』第三十年第一號(大正十四年正月)

注記:

(1)抑:底本は「仰」に作る。
(2)政黨屋連:底本は「政黨屋運」に作る。
(3)鹿爪:底本は「鹿瓜」に作る。
(4)涼:底本は「凉」に作る。以下同じ。
(5)求人開拓デー:底本は「求人開垢デー」に作る。
(6)彌縫策:彌はもと「糸+彌」に作る。

改訂履歴:

公開:2007/06/17
最終更新日:2010/09/12

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