邪教繁昌

高畠素之


一方の旗頭大本教は大分左前になつたとはいふものゝ、何しろ大靈道が惠那山中に總本院を築き、有田ドラツクが國賊退治に廣告料を惜しまず、隱田の行者某が政界の水先案内となつてゐる限り、邪教も先づ當今では、八木節に次ぐ人氣と申すの外はない。

議論を立てる者は、淫祠邪教が繁昌するのは、國運衰亡の前兆だといふ。異端邪説に迷ふは民心の動搖してゐる證據で、偉大なる哲人の缺如してゐる事を語つてゐるといふ。憲政會の院外子にいはせれば、これも現内閣の放漫なる財政々策に罪があるといふ。

邪教の横行が、哲人の神隱しに由來すると否とは保證の限りでないが、心靈療法、自彊術、靜坐法等が、凡ど無批判に受け容れられてゐるところを見ると、萬更ら邪教に縁のない國民とも受取れぬ。

賣卜者、相人、巫女、氣合術師、天理教權教師、御二代樣、巣鴨の神樣、横須賀の豫言者等、凡そ身すぎ世すぎのために、彼等の所謂『心靈』なるものを賣物にしてゐる者がどれだけあるか。手取り早い話が、東京の如何なる露路横丁を探訪したつて、こんな手合の一人や二人住んでゐない所はあるまい。

シユライネルの言葉に(と記憶す)迷信が榮え邪教が起るは、その民族の老衰滅落を語るものである。洋の東西を論ぜず、時の古今を問はず、邪教迷信の絶えた例を聞かないが、上は海軍中將閣下より、下は新橋の髪結婆さんに至るまで、邪教熱に浮かされた記録も餘り見ないやうだ。

この調子だと、上下鼓腹して太平を壽ぐ現代にも、うつかりすれば亡國の危險性が潛在してゐることになる。京都府警察部長某が、決意して邪教狩りをやつた事も斯うなると憂國の至誠の迸りと首肯される。

尤も考へて見れば、大本教が邪教といふなら、切支丹もお陀佛も、共に似たり寄つたりの代物には違ひない。一貫三百のドンドコなどは、陸海軍の軍人樣をお得意としてゐるだけ、大分邪教的色彩は濃厚に窺はれる。加持祓祷が正教で、鎭魂歸神が邪教だとは、どうしたつて當節の人間には受取れぬ理窟だ。

淺草の觀音樣のお塞錢が、年收五萬圓を數ふる限り、成田の不動樣が護摩を焚いて何萬圓を捲き上げてゐる限り、大本教をどう片付けたつて、日本人が邪教人種でないといふ證據にはならぬ。兎に何十萬といふ人間が、得態の知れぬ囈言を吐いて、天下の愚夫愚婦の臍繰りで世を過ごしてゐる限り、日本人の亡國的不安は永久に免疫されないともいひ得る。

日蓮一流の國粹病的詭辯に共鳴した軍人役人の古手などが、法華坊主の尻馬に乘つて、世界統一を夢想してゐるやうでは、今更ら何の顏あつて大本教を邪教呼ばはりする資格があらう。南無阿彌陀佛で救はれた人間が尋常人待遇を受けるなら、艮の金神に拜跪する大本教だつて、敢て世間を狹くする必要はない。鎭魂歸神の職業が惡いといふなら、お賽錢と引換へに福徳を授ける神樣佛樣の商賣をも共に征伐して然るべきが道理である。


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