猫イラズ

高畠素之


通稱『猫イラズ』事本名『燐含有殺鼠劑』は、近時三面記事中の最大人氣役者である。貧困、厭世、失戀、不和、痴情、遣ひ込み、横領エトセトラの果ては、老若男女を問はず、猫イラズを喰らつて血ヘドをはくのが流行となつた。

人智の進運に連れて、ブランコ往生、土左衞門等の原始的自殺法が廢れ、新に燐含有殺鼠劑に依る科學的自殺法が流行するが如きは、これも偏へに文明の恩澤と讚嘆せざるを得ぬ。

内務省衞生局の調査に依れば、燐含有殺鼠劑の自殺及び他殺件數は、大正六年五二、同七年八一、同八年一四五と、逐年漸増の傾向を示してゐたが、大正九年に至つて俄然九六三の數字を示し、一躍前年度に比し六・五倍強の暴騰を示してゐる。

滿天下子女の紅涙を絞り、物論騷然と世間を賑した我が濱田榮子君を筆頭とする本年度の總件數は、未だこれを窺知するに由もないが、毎日の新聞面の景氣から推して、前年度に比較して敗けを取るやうなことは、萬が一にもあり得まいと思はれる。

現に警視廳管内だけの調査を見ても、八月までに劇毒藥自殺者は八十六人を算してゐる。その中に猫イラズ愛用者が幾割を占めてゐるかは不明だが、少くとも昨年度の衞生局統計を基準として比例推定を下せば、七〇%乃至七五%を占めてゐる筈だ。警視廳管内だけで、而も八月迄の猫イラズ嚥下者が六十人乃至六十五人ありと假定すれば、本年末までの全國的な數字は幾何を現すべきか不明ながらも思ひ半ばに過ぐるものがある。

この傾向に恐愕した嚴めしい小父さん方は、自殺者を未然に防止するため『今後猫イラズの販賣を一切許さぬ』方針だといふ。單に猫イラズ自殺者の表面的統計のみを見て、逐年激増の傾向に鑑み猫イラズさへなければの嘆を發したのも、頭の惡いがお役人だから當然だらう。

鐘が鳴るか撞木が鳴るかは、古來から難問中の難問とされてゐる。併し猫イラズがあるために自殺するのか、自殺するために猫イラズを嚥むのか、そんな程度の理窟が解らない馬鹿は昔からなかつた筈だ。如何にお役人樣が馬鹿揃ひにしても、まさかこんな愚論を吐くまで馬鹿が膏肓に入つたわけでもあるまいと思つてゐた。

猫の前へ鰹節を出せば喰はれる危險もあれ、兎の前に鰹節を放り出したからとて何の心配が要らう。要は鰹節そのものが一般的に危險物だといふのではなく、猫に對した時にのみ特殊の危險性が生ずるのだ。然り、猫に對して小判が何等の危險性を含まぬと同樣、兎に對しては鰹節は何等の危險性も生じない。

此理法は猫イラズと自殺者の因果關係を、端的に説明して餘りある。斯くして七千萬同胞を悉く自殺志望者と見ない限り、猫イラズ禁止の論理的根據は成立しない。鰹節が猫のためにのみ存在しないと同樣、猫イラズも亦自殺者のためにのみ製造されはしない。猫イラズの効用は鼠取りの道具として存在してゐるのだ。死なうと思はない奴に猫イラズを與へる事は、猫に小判を見せたと同じく無反響なものであるはいふまでもない。

食を求めんとする猫は、鰹節がなかつたら、戸棚でも塵埃箱でも何でも漁るだらう。死なうといふ奴に猫イラズが無くとも、何の苦しみがある。乞ふ!近く天井の梁に求めよ、而して裏の掘拔井戸に求めよ!豈夫れ遠く藥種屋の店頭に走るを要せんや。

猫イラズ禁止のお役人樣的論法を延長すれば、梁は取り壞すべく、掘拔井戸は埋むべきである。而して更に延長すれば、淺間山に噴火禁止を命ずべく、大海の水を一滴も殘さず乾し盡くすべきである。鎧袖一觸にも價せざる猫イラズに拘泥するの愚は、到底常人の量り知るべからざるものである。


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