國粹的名物

高畠素之


伊豫節が松山の名物名所を誇り、博多節が柳町情緒を讚ひ、仙臺衆が『わしが國さ』と唄ひ出すごとく、古往今來、俚謠俗歌の類は、殆んどお國自慢的要素を以て成育して來た。このお國自慢的感情によるなら、越中富山の反魂丹も、越後蒲原郡の毒消し賣りも、共にお國名物として誇るに足るべく、さては潮來の菖蒲踊り、出雲の鰌すくひ、木曾の御嶽さんの末に至るまで、諸國諸方の名産として珍重すべきものであらう。

建國以來三千載、諸般の學藝美術の發達を遂げた日本國も、この意味に於て、海外に稱揚すべき幾多の名物名産を有する。碧眼紅毛者流にいはせれば、日本は美の國、武の國で、從つてハラキリとゲイシアガールこそ日本の代表的名物だといふ。名物にうまいものなしとやら。して見れば、切腹や藝者が名物ばえがしないといつて、改めて正誤訂正を申込む程に人道屋にもなれぬが、さりとて一寸心外な公憤も抑へ兼ねる。

さればとて學問、工藝、美術は元より、軍事外交の端に至るまで、毛唐のそれに比して、勝算の立つものとては更になく、茲に國粹的名物を物色すれば、頗るその候補難に苦しまざるを得ぬ。然し唯だ一つ、眞に唯だ一つ、筆者の確信を以て公言し得る限り、わが國産鬪犬のみは、國民の意を強うせしむるに足るものである。ブルがどうの、テリアがどうのと能書を竝ベ立てても、わが土佐犬秋田犬の猛勇に比すれば、彼等は尾を捲いて悲鳴を擧ぐる以外、何等の藝當をも有せぬ動物だ。

大正十一?戌年、その初刷紙上で犬談を縱にするの快は割愛しようが、それは兎に角、この犬さへあれば、東夷、西戎、南蠻、北狄、世界の果てに至るまで、凡そ犬同志の喧嘩なら、決して祖國を辱しめる憂はない。假令陸海軍の戰爭に依つて、一敗地にまみれるの折ありとも、犬の喧嘩に負ける心配は少しもない。士道地に墜ち、上下文弱に流るゝの秋、誠に古武士の面影をも想像せしむべき土佐犬こそは、世の誇り、國の誇り、國粹的名物として中外に宣揚するに足るものである。

スペインに鬪牛の名物あり、日本に鬪犬の名物あれば、東西呼應して喧嘩の粹を競ふ筈だが、如何にせん、鬪犬の儀はお上によつて固く法度されてゐる。思ふにこれが理由とする所は、猪突猛撃の犬鬪が慘酷だといふのであらうが、如何にせん、鬪犬彼れ自身にして見れば、喧嘩はその三度の飯と共に生理的必要物である。交尾期の燥狂を憐れんで去勢を施すのが動物虐待なら、鬪犬に喧嘩をさせないのも動物虐待である。犬の心も知らず、贔負の引き倒しとはこの謂である。

日本は斯くの如くして、折角の國寶をも持ち腐れにしてゐる。まさかその埋合はせをする心算でもあるまいが、幸か不幸か、警察的意義に於けるイヌだけは、年と共に、日と共に旺盛を極めてゐる。さすがに、プロイセンの警察國家を摸倣した國柄だけあつて、イヌ政策だけは、誇るに足るべき名物の一つである。通稱危險人物事、即ち要監視人の後へに隨ふ尾行を呼んでいみじくもイヌと命名したのは誰か知らぬが、こんな珍現象は外國で見られた圖でなからう。

何れにもせよ、日本は犬の國であり、今年は戌の年である。大本教なら早速こじつけに、國運發展の瑞兆だと喜ぶかも知れないが、本物の犬ならば兎に角、例の警察イヌの方だけは勘辨して貰ひ度いものだ。聊か年頭に際して希望を表する次第である。


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