思想善導

高畠素之


年寄りの冷水とはよくいつて呉れた。日本といふ國が骨董溺愛國であるためかそれとも長幼序ある儒教的訓練に慣れたためか、その冷水的な御愛矯を、隨時隨所に見せてゐるのは面白い。しかしその感情を最も濃厚ならしむるものは、何といつても役人のオセツカイを措いて他になささうだ。

役人といふ商賣は、人民を治めたり、または治むる者の手先となる仕事だけあつて、職掌柄、時に警告を發して見たり、時に取締を訓じて見たりするのも無理はないが、それがどれもこれも正鵠を失してゐる所に御愛矯がある。何事ぞ花見る人の長刀!出娑張る幕でもない所に身柄を辨へずに飛び出し、さて鹿爪らしく何事かを訓じる。

展覽會があれば竹の臺へ出張し、芝居が開かれゝば嚴い目を光らし、佩劍をひねつて風俗の保全に努むるは感心の外ないが、取締られる裸體畫や脚本の身になれば、さぞかし失笑を禁じ得ないだらう。女湯を窺くと同一心理で美術品を取締り、春書を眺めるつもりでフイルムをカツトするあたりは、お役人ならでは出來ぬ愛矯である。

その邊は先づお役目柄で御苦勞とも存じてやれるが、思想善導などと與太られると、此方もつひ腹に据え兼ねるやうな事も往々ある。土偶人形が傀儡師に繰られやしまいし、自由氣儘に引張りまわされて耐るもんかといふ氣にもなる。それが例の浪花節宣傳や、八木節宣傳だといふに至つては、無氣になつても餘りの事に拍子拔けがしてしまふ。

まさかそれ程までとは行かないが、この頃文部省が直轄學校當局に與へた警告的通牒などといふ奴も、これも聊か以上に御愛矯タツプリの代物である。南次官の言によれば、この頃知識階級に起る情死沙汰、姦通事件、驅落ち騷ぎ等、苟くも知識階級の『思想破綻に援助』するが如き口吻を洩らしてはならぬといふ意味なさうだ。如何に研究が自由であるとはいへ、直轄學校の教師ともあらう者が、對外的に發表する意見までも、自由ではあり得ないといふ意味が含まれてゐるらしい。

市井に轉落する日常の茶飯事にも等しい事件を以て、知識階級なるが故に新思想の勝利となしたり、金持ちであるが故に重大な社會問題を釀させたりする事は元より南次官と共に『遺憾至極』である。然し次官の希望によれば、社會的影響の甚大なるが故に、沈默を守らせやうとするのであるが、此方は尚ほそれが根本に溯り、そんな事を改めて社會問題振る事の莫迦々々しさを嫌つて、而して先づ遺憾を表する次第だ。

大正十年下半期は近年にない時評屋の當り年で、政治的にも社會的にも、書入れの大物が續發した。事件あるごとに、何か一席辯じなけれは引込みのつかぬ識者共が、千姿萬態を競つて喧爭したのも無理はない。その間に伍した大學教師共も、參考書片手に廻らぬ舌をまわしてゐたやうだ。此方の身になれば、社會的影響を憂ふるどころか、その呂律のまわらなさ加減に氣を腐らしてゐたのである。

冷水ごのみの文部省にして見れば、こんなことさへも頭痛の種となるらしい。苟くも直轄學校の教師であり、苟くも學問の自由を許された學者であり、苟くも社會の指導者を以て目せられる識者であつて見れば、世人を啓發指導する如き口吻を洩らしてはならないといふのだ。

それ程發表されて困る研究なら、決してさせぬに限るべく、またそれ程妄言を吐く危險性があるなら、速かに首にしたらよかりさうなものだが、いざとなればさうは行かぬらしい。轡を嵌めたり、鎖を付けたりして引きずり廻してゐる所にお上の冷水的興味があるものらしい。


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