偏見的インターナシヨナリズム

高畠素之


第一、第二、第三インターナシヨナルの區別と云ふやうな事も面白い問題であらうが、今のところ小生には興味がない。第二にしても第三にしても、土臺インターナシヨナルなどゝ云ふ問題で西洋人の尻馬にのる氣にはなれぬ。

全體、西洋人ほど甚だしく口と心の違ふ奴はない。此點は耶蘇教徒も社會主義者も區別はない。社會主義者の『同志』は耶蘇宗徒の『兄弟姉妹』、耶蘇宗徒の四海同胞主義は社會主義者のインターナシヨナリズムと思つてゐれば間違ひはない。兄弟姉妹よと叫びながら資本家は勞働者を搾り、『インターナシヨナル』を歌ひながら社會主義者は社會主義者を肉彈に供して居れる人間だ。口にインターナシヨナルを唱ヘても、心はナシヨナルに燃えてゐる。

殊に西洋人の人種的偏見と來てはお話にならぬ。彼等は白人以外の人種は總て劣等なものと云ふ目で我々を眺めてゐる。亞米利加あたりからやつて來る下廻りの社會主義者など迄が『カムレツド』と叫びながら、一段高い所から我々を見て居るやうな態度を見せる。此んな手合を遠來の客だなどゝ云つてチヤホヤするなどは馬鹿げ切つた奴隷根性だ。

西洋の社會主義者が唱ヘるインターナシヨナリズムとは、精々白人のインターナシヨナリズムだ。歐羅巴の萬國主義だ。白人以外の人種に對しては、斷じて心からのインターナシヨナルではないと思つて居れば間違ひはない。インターナシヨナルを餌にして我々を奴隷に釣らうと云ふ下心が見え透いてゐる。

資本家が仁義道徳を説く時、勞働者がそれを眞に受けたら、それこそ資木家は喜ぶだらう。西洋人がインターナシヨナルを叫ぶ時、好い氣になつてそれに呼應したなら、西洋人は嘸喜ぶだらうが、我々はそれではバターの奴隷にならねばならぬ。

對等のつき合ひならインターナシヨナルも結構であらう。さりながら、向ふには我々を輕侮する心がシコタマあり、事實に於て我々の實力が劣つてゐる今日(現在に於て、西洋人に誇り得る我々の實力は惜しいかな武力のみだ!彼奴等の事を考へると、此唯一の實力にだけでも縋りたくなる)彼等の尻馬にのつてインターナシヨナルの握手を求めるなどは眞平だ。

何はともあれ、國として國民として強くならぬ限り、富に於ても、學問に於ても、武力に於ても、社會組織に於ても、革命に於ても、眞に彼等と對等の實力を涵養するに至らざる限り、インターナシヨナルは西洋人丈のお題目にして置け。日本人は日本人としての實力を養ふことが先決問題だ。

附記 露西亞人は西洋人か否かを知らず。西洋人ならずとせば、以上の點に於て幾分西洋人よりもマシのやうに見えるが、之れとて中々油斷はならぬ。


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