客觀か獨斷か

高畠素之


主觀を尊重し過ぎると、本間久雄君のやうなお芽出度い事になつて了ふが、さりとて又客觀の過重も、一歩踏み違へると飛んでもない間違を生ずる。此最も好い例は、客觀派の元締のやうな顏をしてゐる堺利彦氏が、宮地嘉六君の離婚事件に際して、踏み滑らした一言である。

堺氏が新聞記者に語つた處によると、宮地君が結婚したのは小説を書く爲めの手段であつた。そしてそれが證據には、宮地君の結婚生活からは『群像』と言ふ小説が生れてゐる――と言ふのである。人間の行爲を單に結果からのみ見ることが許されるならば、此理屈も成り立つであらうが、過程を無視した結果觀は、畢竟する處一個の獨斷に過ぎないのである。

宮地君の場合にしても、久しく憧憬してゐた結婚生活を始める時、今日のやうな幻滅の日を豫想してゐる筈はなく、況して結婚する事によつて小説の材料を造らうなどと言ふ事が、最初から意識に上つてゐる筈もないのである。たゞ後の結婚生活が破壞される樣な、何等かの條件が潛んでゐた爲めに、彼れの主觀の如何に拘らず、少しも豫想されなかつた結果が生じて來た迄である。此場合如何なる條件の下に、如何なる經路を經て、かゝる結果が生じたかと言ふ事を觀察してこそ、客觀的な態度だと言ふ事も出來やうが單なる結果のみを捉へて、初めから斯かる結果を豫想して行はれたものでもあるかのやうに見るのは、客觀に似て非なる獨斷的觀察であると云ふの外はない。その上他人の行爲に對してかゝる獨斷的觀察を公表する事は、往々人を傷ける事にもなるのである。若し何人かゞ堺氏に向つて『お前は社會主義を生活の手段としてゐる。その證據には現に社會主義によつてのみお前の生活が支えられてゐる。お前は社會主義商だ』と言つたならば一體何と感じられるであらうか。


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