量か價格か

高畠素之


一時は低落してゐた米價が、また著しい勢ひで高騰して來た。何しろ只さへ減収を見越されてゐた米作が、極端な天候不良の爲に更に一層の不作となるだらうと言ふのだから、米價は何處まで奔騰する事か、一寸見越しが付かなくなつて了つた。

現状のまゝで放任して置いては、たゞでさへ不景氣の今日、無産階級の生活は、極端な不安に襲はれなければならない。新聞の言ふ所では昌平橋の簡易食堂や、上野の公衆食堂で十錢か十五錢の食事に腹鼓を打つ者が増えて來たのは、米價の暴騰も原因の一となつてゐるさうだから、今後の無産民の生活は更らに慘めになる事であらう。

これに對して、政府がかつて物價調節の爲め(當時にあつては即ち米價引上げの爲)に買付けた三百萬石の米を吐出したら少しは緩和されるだらうとの輿論もある樣だが『政府は米作は不良であつても、供給さへ十分なれば何も心配する事はない。當局の考慮しつゝある所は、量の問題であつて價格の問題でない』と稱し、平然として濟まし返つてゐる。

然しながら米價の昂騰は大多數國民の生活を脅威する問題である。之れをもし問題でないとするならば、如何に彼等が代表する農村資本家が打撃を受けるにしろ、米價の低落した時には何故其問題でない筈の『價格』を問題とし百方奔走して釣上げに努めたのか。而も今度の暴騰は、政府の引上げ策が行はれて以來の事である。それを斯くの如き暴言を吐いて嘯ぶいてゐるとは、あまりに見え透いた利己主義である。


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