序文

高畠素之


マルクス學説は哲學、社會學、經濟學の三方面に亘つてゐる。哲學も、社會學も、經濟學も、今日では夫々特殊の一學科として各專門的に攻究されてゐるが、問題に依つては、此等の諸學科の總合的共同關與を前提せずしては解決し得られないものがある。此場合には、かかる共同關與その事が既に特殊の一學科を構成するものと言ひ得る。社會問題の如きは其もつとも顯著なる一例であらう。

けれども社會問題にして既に特殊の一學科とされる以上、マルクス説も亦當然一學科を構成すべきものとなるであらう。なぜならば、社會問題の學的方面は、マルクス學説を中心としてのみ展開されてゐるといふも過言ではないからである。

例へば、社會政策學といふものがある。これはマルクス學説と同一のものでないことは論を俟たないが、然しマルクス學説を標準として展開されない限り、如何なる社會政策説も學問としての根柢から除外されるに至ることは事實である。社會政策的攻究の中、些かでも學的根據を有すると見られるものは、擧げてマルクス主義の提唱にあらざれば、マルクス批判の別名に過ぎないといふ現状は如何ともすることが出來ない。マルクス説の形骸は死んでも、マルクスの把握した問題は生きてゐるからである。マルクスに在つては、試問その事が深き哲理であつた。

此意味に於いて、マルクス學又はマルクス批判を以つて社會科學中の特殊の一學科とすることは不當でない。私は此見地から、各大學が競つてマルクス講座を新設するに至らんことを期待するものであるが、それは兎もかく、今日すでにマルクスが一般社會思想界に特殊の際立つた位置を占めてゐる事は爭はれない。此現象はドイツに於いて最も著しい。ドイツにおける最近一流の社會科學者といへば、ブレンターノにしろ、シユタムラーにしろ、ゾンバルトにしろ、ディールにしろ、その他等、等、皆これマルクス批判の專門學者であると言つても不當ではないのである。

茲に學説梗概を紹介せんとするミハエル・ツガン・バラノヴスキーは、ドイツ人ではないが、其活動部面はドイツを中心とし、ドイツにおけるマルクス批判家中特殊の一位置を占むるものである。

彼れは一面カントの流を汲む理想主義者であるが、他の一面に於いては又、マルクス學説の攻究に深く沒頭し、マルクス學説に對する充分の理解と彼れ自身の理想主義的傾向とに基いて、一種の科學的理想主義的社會主義を提唱してゐる。彼れの批判における特徴を擧ぐれば左の通りである。

(一)カント的理想主義。

(二)マルクス學説に對する深き理解。

(三)マルクス學説は幾多の概念錯亂と論理的矛盾とを含んでゐるが、然し其根柢たるべき學的本質には捨て難きものがあるとの見地から、マルクス學説の改造を主張せる點。

(四)社會主義それ自身の眞髓は、寧ろマルクス前期の所謂空想的社會主義に求むべきであるとし、マルクス主義に至つて社會主義は單なる階級利害的實際運動に墮した嫌があるとする點。

以上の中、(一)及(二)は彼れの凡ゆる社會主義的述作に共通してゐる所であるが、(三)は主として『マルキシズムの學説的基礎』(Tugan-Baranowsky, Theoretische Grundlagen des Marxismus)、(四)は主として『歴史的發展より見たる近世社會主義』(Tugan-Baranowsky, Der moderne Sozialismus in seiner geschichtlichen Entwicklung)の中に展開されてゐる。

本書は右の『マルキシズムの學説的基礎』の中、唯物史觀に關係ある部分のみを採つて抄譯したもので、飜譯といふには餘りに自由であり、紹介といふには餘りに飜譯的であるが、いづれにしても原著の眞髓を傳へる點には遺漏なかつたことを期するものである。原著者の理想主義的傾向を是認する者と否とに拘らず、マルクス學説に對する彼れの批判の内容には、幾多の學ぶべき所あるを疑はない。

大正十三年十月十二日

高畠素之

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