内翰楊文公(楊億)

公、名は億、字は大年、建州浦城の人。七歳にして文章を物にし、十一歳にして名を太宗に知られ、詩賦の試験を受け、秘書省正字を授けられ、秘閣での読書(1)を許された。真宗が即位すると、左正言を拝し、『太宗実録』の編纂に加わった。処州知事を経た後、召還されて知制誥となり、翰林学士に進み、同修国史になった。たまたま母が陽翟の地で病に倒れたので、帰省を願い出るや、許可も得ずに朝廷を去った。このため太常少卿に降格され、西京分司となった。復帰して汝州知事になった。おりしも玉皇(2)に聖号を加えることになり、その参与を求めた。かくして朝廷に召還され、儀式の策定に預かった。天禧四年(1020)、また翰林学士になった。その年の冬、卒した。年四十七。仁宗の即位に及び、礼部尚書を贈られ、文の諡を賜った(3)


楊文公は十一歳のとき、太宗の試験を受けた。そのときの問題は、賦が一つ、詩が二つだったが、公はあっという間に作り上げた。太宗は喜び、中書省(4)に再試験させた。執政が喜朝京闕の詩を作らせたところ、またもや立ちどころに作り上げたばかりか、「願わくは清忠の節を秉り、身を終えるまで聖朝に立たん」の句があった。宰相は慶賀を奉った。

『湘山野録』より


楊大年は、文章を作るとき、いつも門人賓客と宴会や賭博を開いた。しかし談笑喧噪の中にあっても、頭の中が乱れることはなかった。小さい四角の紙に細字にて書き、筆を揮うこと飛ぶがごとく、文には句点を加えず、一幅完成するごとに、門人に書き写させた。門人は作業に疲れてしまった。なにせわずかの間に数千言の文章を作り上げるからだ。まことに一代の文豪といえるだろう。

『帰田録』より


楊文公は文章を作るとき、いつも子弟や門下生に用いた故事の典拠を検討させ、小紙に記録させていた。そして文章が完成すると、記録をのり付けにして収納していた。当時の人はその記録の束を「衲被」とよんでいた。

『呂氏家塾記』より


楊文公は翰林学士のとき、契丹に与える答書の草稿を書き、そこで「鄰壌交歓」(5)の文字を用いた。草稿を提出したところ、真宗は「鄰壌」の字の横に「朽壌、鼠壌、糞壌」と注記した(6)。大年はすぐに「鄰壌」を「鄰境」の字に改めた。明け方、唐の故事――翰林学士でありながら、文章に改正の必要があれば、職責を全うしたことにならなぬゆえ、罷むべきである――を引き、すみやかに学士の職を罷免するよう求めた。真宗が宰相に語るよう、「楊億は他人の意見を必要とせぬな。まことに気性が強い」と。

『帰田録』より


楊文公は文豪として知られていたが、その剛直の性格から人づきが悪かった。そのため大年を憎むものは、難癖を付けて讒言した。大年が学士院に宿直していたある夜、突然禁中に呼び出された。大年が謁見に訪れると、真宗は茶を与え、しばしゆるりと話しをした後、文章のつまった筺を取り出し、大年に見せた。「卿は私の筆跡を知っておるのか?ここにあるものはみな私が手づから書いたもので、決して臣下に代筆させたものはない」。大年は恐れおののき、返答の言葉も見つからず、ただただ頭を下げて退席した。このとき公はようやく人の讒言を知ったのである。この後、大年はわざと非常識な振る舞いをして陽翟に逃げ去った。真宗は文章を愛する君主だった。そのため、はじめは大年を特に大事にしていた。しかし晩年になると、少しづつ恩愛が衰えていった。それはこの事件のせいである。

『帰田録』による


楊文公は剛直な性格で人づきが悪く、心を許すものは李維・路振・刁衎・劉筠の数人に限られていた。王欽若がにわかに権勢を手にしたときも、公は平素とかわらずその人となりを軽んじていた。そのため王欽若は公を怨んだ。また陳彭年は文章と史学でもって名を知られていたが、またもや公の名が己の右に出ることを怨みに思っていた。そこで王欽若と結んで公を排斥した。たまたま公の母が陽翟の別荘で病に倒れたので、公は帰省を願い出、許可も待たずに去ってしまった。(7)


楊文公は文章の力によって若くして名誉を手に入れた。しかしその人となりは剛直で、自分にも厳しかった。後日、母の病気を理由に陽翟へ逃亡した。王文正公(王旦)は讒言を恐れ、真宗に医者と薬を賜うよう勧めた。しかし弾劾するものが後を断たず、ついに亜卿として分司になった(8)

真宗が宰執(9)に語るよう、「楊億は好んで時政を謗っておると聞くが」

王公(王旦)、「楊億は文人であり、また幼少より国恩を受けておりました。たしかに皮肉に過ぎるところはあります。しかし時政を誹謗することなど、絶対にないと私が保証いたします」

王公は文公を高く買っており、いつも朝廷への復帰を願っていた。そこで中書省の斎宿(10)を利用し、文公の最近の詩を手に、趙文定(趙安仁)などの賢臣と賛嘆しあった。真宗はこのさまを知り、公(王旦)に命じて文公を召還させ、秘書監とした。しばらくして後、公に問うものがいた。

「すぐにも楊大年に旧職を与えなかったのは何故です。」

公、「さきに大年は軽々しく陛下の左右を去った。そのため畏るべき批判にさらされていた。(11)幸いにも陛下の恩愛があればこそ救われた。この職は真心から出たもので、これによって君臣の契りを全うして欲しいと願ってのことなのだ」

公が薨じた後、文公はまた翰林院にもどった。

『王文正公遺事』より


楊文公は執政に疎まれるや、母の病気を理由に帰郷を求め、朝廷の許可も得ずに韓城(12)に帰り、そのまま弟の楊倚と住み着いた。年を越えても朝廷から出仕の誘いはなかった。そこで朝廷の親友に手紙をしたためて云うには、「介之推の母子は綿上の田に帰らんことを願い、伯夷・叔斉の兄弟は甘んじて首陽山で餓死した」(13)と。この後、汝州知事を与えられたが、執政に阿諛して公を弾劾するものが後を断たなかった。そこで公はまた親友に手紙を送った。「既に溝壑(みぞ)に擠(おと)された上、なおも石を落とされ続けております。蒺藜(いばら)の困しみを受けた上、なおも弓を射られる始末」と。

『青箱雑記』より


楊億が翰林院にいたとき、丁謂が参知政事になった。楊億は通例のこととて丁謂を表敬訪問した。そこで同僚に語るには、「骰子が選んだだけのこと。なにも貴ぶに足らぬ」。ほどなく親の病を理由に、陽翟の別荘に逃げ出した。

『聖宋掇遺』より


楊文公は剛直で、わが道を行く人だった。舌先三寸で出世した男がおり、戯れで公に言った。「君子は、微を知り彰を知り、柔を知り剛を知るものだ」(14)と。公、声に応じて曰く、「小人は不仁を羞じず、不義を畏れず」(15)と。

『呂氏家塾記』より


楊文公は生まれながらの才人で、幼少から歿年に至るまで、つねに文章とともにあった。また後進の育成を喜びとし、ために名を成したものも多かった。また優れた発言を耳にすれば、片言隻語であっても、必ず暗誦し、生きる手本とした。手づから当世の述作数十篇を集めた。交友を重んじ、人となりは堅固にして正直、名誉を貴んだ。しばしば親戚の貧窮を救済し、ために俸禄を使い果たした。味わい深い言葉を口にしたが、忌憚なく人物の善悪を論評したので、怨む人間も多かった。(16)


范文正公(范仲淹)の讃文(17)に曰く、「公は知名の才人でありながら、ふさわしい位になかった。そのため天下の人は公の文章を知るのみで、その生き様を理解していない。むかし王文正公は宰相の位にあること二十余年、いまだかつて愛悪の跡を見せなかった。ために天下はこれを大雅とよんだ。寇萊公(寇準)が国柄を握るや、真宗に澶淵の行幸あり、よく天子を左右に導き、動かざること山のごとく、戎狄を退け、宗廟社稷を守った。ために天下はこれを大忠とよんだ。枢密扶風の馬公(馬知節)は、意気高揚、朝廷に立っては、天子の心を犯せども、いかなることも包み隠さなかった。ために天下はこれを至直とよんだ。この三君子は一代の偉人である。公はこの三君子と心を許しあい、その信頼の情はあたかも金石のごとき有様だった。ならば公の生き様の正しきこと、これだけで明白であろう」



〔注〕
(1)秘閣は宮廷の貴重書庫。秘閣読書とは、その秘閣での読書を職務とする一種の身分。
(2)天書にちなんで真宗が祀った神。
(3)正確には仁宗が親政をはじめた景祐元年のこと。
(4)宰相府のこと。
(5)「隣国どおし、たがいにうまく付き合いましょう」の意。
(6)外交文書には両国の友好を否定するような文字を用いてはならない。ところが楊億の提出した「壌」の字には、「朽壌、鼠壌、糞壌」などの好ましからぬ熟語が存在した。そこで真宗は「壌」の字に問題があるので、もう一度検討し直せと朱批を加えた。
(7)『続資治通鑑長編』大中祥符五年九月癸巳条に類似の逸話が紹介されている。
(8)亜卿は次官の意。分司は中央官庁の出向所だが、名前だけの名誉職。このとき楊億は「太常少卿・分司西京」になった。
(9)宰相と参知政事(副宰相)のこと。
(10)祭祀前後の物忌み。
(11)「大年は軽々しく朝廷を去ったがため、陛下の左右の批判は恐るべきものがある」とも読める。
(12)同州韓城県か。
(13)介之推は春秋時代の人。長らく晉の文公の亡命生活に従ったが、文公の帰国後、賞与の誘いがなく、また自身もそれを口にせず、母をつれて隠棲した。伯夷・叔斉は武王に殷の討伐を思いとどまるよう諫言したが、聞き入れられぬと分かるや、そのまま首陽山で餓死した。
(14)『周易』繋辞下伝の語。君子は、微と彰、柔と剛、ともに知るもので、剛に過ぎる貴方は君子と言えぬと批判したもの。
(15)『周易』繋辞下伝の語。
(16)『続資治通鑑長編』天禧四年十二月丁丑条の楊億卒伝に類似の記事が見える。
(17)以下、范仲淹「楊文公写真讃」(『范文正公集』巻5)の抜萃。

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