丞相李文定公(李迪)

公、名は迪、字は復古。李氏はもと趙郡の人。後、濮州に移住した。進士科を首席で合格した。汝州と兗州の通判を経て、鄆州知事になり、三司塩鉄副使、知制誥を歴任した。後、集賢院学士・永興軍知事になり、陝西都転運使に移り、翰林学士になった。天禧年間(1017-1021)、給事中・参知政事になった。仁宗が皇太子になると、その賓客(1)を兼ね、ついに吏部侍郎・同平章事になった。下野して鄆州知事になった。仁宗が即位し、太后が政務を執ると、衡州団練副使に左遷された。舒州知事として復帰し、江寧府、河南府の知事を歴任した。太后が崩ずると、また宰相になった。景祐年間(1034-1038)、下野して亳州知事になった。また呼び戻されて資政殿大学士になった。太常卿に降格されて密州知事になった。また大学士になった。後、彰信軍節度使・天雄軍知事になり、青州知事を経て、太子太傅として致仕した。薨じた。年七十七。


李文定公は挙子(2)のとき、种放明逸先生に従学した。省試に赴く際、明逸の推薦状を手に柳開仲塗に面会を求め、文巻(3)と名刺を礼物として差し出した。しばらくして、仲塗が現れて言うには、「沐浴してからでないと、とても君の文章は読めない」と。そこで文定を門下に留めた。ある日、仲塗じしんが賦の模擬試験を作り、文定、子供たち、そして門下の客に答案を作らせた。文定の賦が完成するや、仲塗は驚愕して、「君はきっと科挙で首席となり、のちのち宰相になるだろう」と言って、門下の客と子供たちに礼拝させた。そして曰く、「月日が経っても、この日のことは忘れないで欲しい」と。文定が宰相になったとき、仲塗の門下の客に柳某なるものがいた。文定は長男の李柬之の嫁に、その柳某の娘をもらった。これは仲塗の言葉を覚えていたからである。

文定の作った賦はもう残っていない。これは王沂公曾(王曾)のときと同じで、そのむかし沂公が有物混成賦を作ったとき、識者はきっと宰相になるだろうと予知したという。おそらく日ごろの鍛錬と学問が発露し、このような言葉となって現れ出たのだろう。程明道先生(程顥)が私(4)のために話してくれた。

『邵氏聞見録』より


李文定公が陝西都転運使の任を終え、朝廷に帰還したときのこと(5)、真宗は東西で祭祀を挙行し(6)、天下太平の証にしようと考えていた。ところが秦州知事の曹瑋から「羌族がひそかに侵略を企てております。防備のため大軍を派遣していただきたい」と報告があった。真宗は激怒した。曹瑋が誇大な報告で朝廷を恐喝し、造兵を求めているよう思えたのだ。おりしも李迪が陝西から帰還したので、これを呼び、曹瑋の意見を示し、嘘か真か、意見を求めた。事によっては曹瑋を処刑し、妄言を禁じようとしたのだった。

文定は落ち着いた口調で言った。「曹瑋は武人です。しかも遠く辺境の地におり、朝廷の動向を知りません。ですから軽々しくこのような報告を寄こしたのでしょう。深く罪するに足りません。私は陝西にいるあいだ、辺境の将軍の能力を比べたところ、曹瑋の右に出るものはいませんでした。後々きっと国家のために功を立てましょう。もし今回のことで処罰すると仰せであれば、私は陛下のためにも残念に思います」

これを聞いて真宗の怒りは少し収まった。そこで李迪はまた口を開いた。「曹瑋は優れた将軍です。絶対に妄言など致しません。曹瑋の求めた造兵には、必ずや答えてやらねばなりません。愚見によれば、陛下は鄭州門(7)から兵を出すのを厭うておいでと存じます(8)。ならば秦州近辺には多数の兵が配置されておりますので、その兵を出して秦州を守らせればよろしいでしょう。私は陝西にいたとき、小冊子を作り、各地の兵数を記して参りました。まだ陛下には献上いたしておりませんが、いつも大帯の中に入れております」と。真宗がすぐ取り寄せるよう命じたので、李迪は大帯の中から冊子を取り出した。真宗、「某州と某州の兵をこれだけ出して秦州を守らせよ。卿はすぐ私の命令を枢密院に伝えて、実施させよ」

ほどなく羌族は大々的に侵略を始めたが、曹瑋はこれを迎撃し、大いに敵兵を破り、ついに山外の地(9)の確保に成功した。戦勝の報告がもたらされると、真宗は喜び、李迪に言った。「山外の勝利は、卿の功績だ」

『涑水記聞』より


真宗が劉氏を皇后に立てたとき、李迪は翰林学士だった。そこで何度も抗議の上奏をした。劉氏は卑賤の出であるから、天下の母(10)たるに相応しくない、と。このため劉氏は李迪を深く怨んだ。周懐政の事件のおり(11)、真宗は激怒し、太子を廃そうとまでした。誰ひとり口を開かぬなか、李迪は参知政事だったが、真宗の怒りが少し収まるのを俟って、ゆったりと発言した。「陛下はお子様が幾人いられるかご存じの上で、そう仰せなのですか?」(12)真宗は正気を取り戻し、周懐政らを処刑するに止め、東宮については一切不問に付した。これは李迪の力である。

『涑水記聞』より


公が翰林学士のころ、連年の旱魃と蝗害で深刻な税収難に悩まされていた。そんなある日、公が自宅で沐浴していると、突然の呼び出しがあり、内東門で真宗の諮問にあずかった。真宗は三司(13)の計上した歳出を示していうよう。

真宗、「どうしたものか」

公、「なんでも太祖は内蔵庫を設け、西北の領土奪回と饑饉の非常支出に備えられたとか。現今、領土奪還の費用は不要ですので、陛下はこの内蔵の資産を財政に充てられたなら、税も軽くでき、また民の苦労も減りましょう」

真宗、「それなら内蔵庫から金帛数百万を三司に貸してやろう」

公、「天子の財産に内も外もありません。三司に『貸す』などと言わず、ぜひとも三司に賜り、陛下の徳沢を高らかに示していただきたい」(14)

この言葉に真宗も喜んだ。

また公が言うよう、「泰山封禅のおりは、行く先々で、木々の伐採や道路の整備を禁じられ、行宮も泥塗の修繕で済まされました。ところが汾陰と亳州に行幸したときは、その何百倍もの土木費を用いられました。このたびの旱魃と蝗害は、おそらく天が陛下に戒めを下されたものでしょう」

真宗、「卿のいう通りだ。一二のものが私に間違いを起こさせたのだ」(15)


真宗の晩年、病に倒れてからのこと、あるとき真宗は宰相に向かって、怒気を露わに言い放った。「昨夜、皇后以下のものが言ったのだ!劉氏(16)が朕を宮中に閉じ込めていると!」(17)宰相らは真宗の妄想だと分かっていたので、なにも答えなかった。ところが李迪だけは、「もし仰るようでしたら、なぜ法によって処罰なさらぬのです?」と言った。しばらく時をおいて、真宗は正気に返り、そして言った。「いや、間違いだった」。章献皇后は帳の外でこれを聞いており、李迪を憎むようになった。

『涑水記聞』より


真宗が病に倒れ、もういよいよという、ある晩のこと、李文定公などの宰執は、祈祷のため内殿に宿直していた。この当時、仁宗はまだ幼く、八大王の元儼(18)なるものに威名があった。王は真宗の病気見舞いと称して禁中に留まり、何日たっても出ようとしなかった。宰執はこれに頭を悩ませたが、どうにもよい方法が思い浮かばなかった。たまたま翰林司が湯水を容れた金の器を運んできた。「王のご所望です」と言う。そこで文定は墨に濡れた筆で湯水をかき回し、真っ黒にしてから運ばせた。これを見た王は、毒ではないかと驚き、すぐさま馬に乗って宮中を後にした。文定のふるまいは、いつもこのようだった。(19)

『邵氏聞見録』より


真宗は病に倒れ、症状が悪化すると、政務から遠ざかった。李迪と丁謂の二人が宰相だった。宦官に雷允恭なるものがおり、真宗の寵愛を受けていた。このため劉皇后以下、みな雷允恭の言うがままだった。丁謂の栄達もこの雷允恭の力添えによるものだった。

ある日、雷允恭が中書(20)に真宗の意向を伝えてきた。林特を枢密副使にせよという。しかしこれには李迪が、「両府(21)の大臣を任命する場合は、じかに陛下から言葉をいただかねばならぬ」と言い、翌日、真宗の面前で猛然と反対した。丁謂は反論できず、ただ首を垂れて小さくなるだけだった。丁謂が退出した後、李迪はひとりその場に留まり、真宗に意見書を納めた。

当時、真宗は記憶が曖昧になっており、李迪と丁謂は二人して宰相を罷免され、地方官に異動を命じられた。ところが雷允恭は丁謂の家に赴き、「これでは宰相がいなくなるので、丁謂はしばらく留まるように」との、真宗の意向を伝えた。丁謂はすぐさま中書に向かい、まず同僚と面会し、ついで中書の小役人を丸め込み、文章の捜索にかかった。翌日、丁謂は他の執政と政務の報告に赴いたが、真宗は何も言わなかった。執政が退出した後、丁謂はひとりその場に留まった。

さて、丁謂は真宗の前を退くと、そのまま学士院に向かった。そして小役人に言うよう、「当直の学士は誰かな?」役人、「劉学士筠(劉筠)です」。丁謂は劉筠を呼び出し、口頭で真宗の命令を伝えた。「宰相に復帰した。辞令書を書きたまえ」。しかし劉筠は「宰相の任命は、直接、陛下から命令を受ける必要がある。もし仰せの通りなら、今日にもきっと呼び出しがあろう。それから辞令書を書きましょう」。これには丁謂も手の打ちようがなかった。

後日、丁謂は政務の報告に赴き、またその場に留まった。そして退出すると、学士院に向かい、誰が当直かを尋ねた。曰く、「銭学士惟演です」。丁謂が真宗の意向を伝えたところ、銭惟演はすぐさま命令に従った(22)。丁謂は宰相に復帰すると、李公とその一味を放逐した。このため正しい人々はいなくなった。

さて、李公を左遷すべく辞令書を作ることになり、(23)、宋宣献(宋綬)が知制誥としてその任に当たった。宣献が李公の罪名を尋ねたところ、丁謂は「春秋の無将、漢法の不道(24)。これらがそうだ」と答えた。宣献はやむを得ず従った。それでも文案を見た丁謂は、より忌憚なき表現を求め、多くの文辞をみずから書き改めた。真宗の面前で論争したことを取り上げ、「この事件に恐懼され、ついに重き病に至られた」(25)と表現したところなどは、丁謂の手になる部分である。

後日、丁謂が朱崖に左遷されたとき、宋綬はなおも知制誥だった。そこで筆を手にして曰く、「無将の戒は、深く魯経(26)に著われり。不道の誅は、漢法より逃るるなし」と。これには天下の人々も快なる哉と叫んだ。

『龍川別志』より

〔異説一〕

真宗が病に倒れ、寇準が罪せられた。丁謂と李迪は宰相として、この事件について意見した。真宗は寇準に小処の知州(27)を与えた。ところが丁謂は退出するや、その紙の末尾に、「陛下の御言葉を奉じ、遠小処(28)の知州に任命す」と記した。

李迪、「陛下のお言葉に『遠』の字はなかったが?」

丁謂、「貴君と二人して陛下のお声を聴いたのに......。貴君は陛下の言葉を改竄してまでも寇準を庇うつもりか!」

こうして二人は激論を戦わせ、たがいに思うところを上奏した。真宗は翰林学士の錢惟演に辞令書を書かせ、宰相の丁謂を罷免することにした。ところが錢惟演は李迪を追放し、丁謂を宰相に留める文章を作った。朝廷の外では丁謂失脚の噂が広まっていた。それだけに辞令書が出されると、驚きあきれてしまった。しかし真宗は何も言わなかった。

『涑水記聞』より

〔異説二〕

丁謂と李迪は、二人して思うところを述べ、二人して宮殿を後にした。ところが丁謂は真宗の言葉を勝手に改め、林特の引き立てを謀った。李迪は怒り心頭で、丁謂と言い争い、笏で殴りかかった。丁謂は走って逃げのびた。そこでまた二人して真宗に思うところを上奏した。真宗は二人を罷免し、李迪を鄆州知事にした。ところが翌日、丁謂だけが宰相に留まった。

『涑水記聞』より


李迪が鄆州に到着してから半年後、真宗が崩御し、ついで李迪も衡州団練副使に左遷された。丁謂は侍禁(29)の王仲宣を派遣し、李迪の衡州赴任を監視させた。王仲宣は鄆州に到着すると、通判以下の官僚のみと面会し、迪とは面会しなかった。このため李迪は恐怖に駆られ、刀で自殺を図ったが、このときは人に助けられた。さて、王仲宣はありとあらゆる方法で侮辱と脅迫を加えた。李迪に面会を求めるものがおれば、すぐにその姓名を記録した。また食べ物が届けられても、腐るまで手許に止め、李迪に与えず捨ててしまった。これに門客の鄧餘は怒った。「貴様!我が主を殺して丁謂に媚びを売るつもりか?俺は死など懼れぬぞ。もし我が主を死なせでもすれば、俺は絶対にお前を殺してやる!」こう言って李迪が衡州に着くまで側を離れなかった。王仲宣は鄧餘に畏れをなし、おかげで李迪も命拾いをした。

李迪は衡州に到着してから一年あまりで秘書丞・舒州知事を授けられた(30)。そして章献太后が崩御すると、李迪は尚書右丞・河陽府知事であったが、また宰相として朝廷に呼び戻された(31)。李迪はこれを稀代の厚遇とばかりに感激し、全力で仁宗の輔佐に当たり、己の知り得る全てにおいて力を尽くした。しかし呂夷簡はこれを忌み嫌い、ひそかに仁宗に李迪の悪口を言った。そのためまた一年あまりで宰相を罷免され(32)、地方の知事になった。李迪が人にいうよう、「私は己の力量をも顧みず、陛下の知遇を頼みに、みずからを宋璟になぞらえ、呂夷簡を姚崇にと見なしてきた(33)。その彼奴が私をこう思っていたとは、考えもしなかった」

『涑水記聞』より


李文定と呂文靖(呂夷簡)は二人して宰相になった。しかし李公は正直であっても粗雑であり、対する呂公は巧妙であり綿密であった。あるとき李公が企画書を提出したところ、呂公はとうてい適わぬとばかり、人に聞いた。「李門下(李迪)は誰を懐刀にしているのかの?」ある人、「李に門客などいませんよ。ただ息子の柬之は、父親よりも知恵者だそうです」。この後、呂公が李公に言うよう、「ご子息の柬之君は有能な人物らしいですな。ふさわしい仕事を与えなさいな」。李公は謙遜して断ったが、呂公は「賢人の推薦は私の一存によるもの。貴方とは関わりないということで」と言って、すぐに上奏し、李柬之を両浙路の提点刑獄にしてしまった。李公親子は謀られたとはつゆ知らず、喜んで辞令を受け取った。

しばらくして李公と呂公の仲が悪くなった。李公は仁宗の面前で辞任を申し出た。仁宗が訝しんで理由を尋ねたところ、李公は「私は宰相呂夷簡の欺瞞に堪えられませぬ」と訴え、人の名をあげた。そこで仁宗は呂公を呼び出し、直に問責することにした。――この当時、燕王(34)の権勢は甚だしかった。その王から、門下の僧侶に官をやって欲しいと要求があった(35)。李公と呂公は二人して議論した結果、これを許すことにした。ところがこの後すぐ呂公は休暇を取ったので(36)、李公が書面で許可した。李公は久しくしてこの事実を忘れ、かえって「呂夷簡は燕王に阿っている」と弾劾した。呂公が当時の書面を差し出したところ、李公は慚愧に堪えず、退いて処罰を待った。そしてとうとう宰相を罷免された。

その後、久しく地方官を務めていた王沂公(王曾)に、宰相復帰の心が芽生えた(37)。宋宣献(宋綬)は参知政事で、呂公とたいそう仲がよかった。そこで沂公のために言うよう、「孝先(王曾)はまた宰相になりたいのでしょう。貴公に彼を容れる度量がおありか?」呂公は頷いた。宣献、「孝先と貴公は因縁浅からぬ仲。もし容れるおつもりなら、手厚く持てなさねばなりますまい。復古(李迪)のようではいけません」。これにも呂公は笑って頷いた。宣献、「公は既に昭文館大学士を帯びていられる。孝先が来れば、集賢殿大学士として処遇すればよろしいでしょう(38)」。呂公は「いや、私の肩書きを落とせば問題なかろう」と答え、王公に宰相復帰の意志があると上奏した。仁宗がこれを許したので、呂公はさらに王公を首相にするよう願い出た。しかし仁宗はこの申し出を許さず、次相に止めた。宣献を派遣して可否を求めたところ、王公もこれを了承した。

さて、王公が中書に入ってからも、呂公は勝手に物事を処理し、少しも王公に譲るところがなく、ために二人の仲は悪くなった。するとまたも王公は仁宗の面前で辞任を求めた。仁宗が理由を尋ねると、また李公のときのように答えた。仁宗がつよく理由を尋ねたところ、ようやく王公は口を開いた。「呂夷簡の政治には賄賂が横行しております。その全てを記憶しておりませんが、王博文が陳州から開封府の知事になったとき、三千緡(39)ほど入った申します」。仁宗は驚いて、また呂公を呼び出し、直に問責することにした。呂公が有司による調査を要求したので、御史中丞の范諷に調べさせた。しかし収賄の事実は出てこなかった。そのため王公は罪を認めて辞任を申し出た。事件の真相は恐らくこうであろう。――呂昌齢なる呂公の族人がいた。彼は出世の口を利いてもらえぬことを怨みに思っていた。ちょうど「武臣の王博古が呂公に賄賂を贈った」と言うものがいた。昌齢は間違えて「博文」の名を王公に告げた。そして王公はよく調べもせず、仁宗に告げてしまったのだ。さて、これには仁宗も激怒し、王公に鄆州知事を命じて朝廷から追い出し、呂公も節度使を与えて許州知事とし(40)、参知政事の宋宣献と蔡文忠(蔡斉)もみな左遷した。(41)

李公と王公は、粗雑と短慮とのために宰相の位を去ったが、天下の人々は、今に至るまで二人を「正人」と称している。

『龍川別志』より



〔注〕
(1)官名。
(2)科挙で郷試を合格したもの。
(3)科挙の模擬答案。
(4)『邵氏聞見録』の著者、邵伯温のこと。
(5)大中祥符九年(1016)八月、李迪は陝西都転運使から翰林学士になった。『続資治通鑑長編』同年同月丙子条を参照。
(6)この後、真宗は泰山で封禅を行い、汾陰で后土を祀り、亳州で老子を祭った。
(7)『続資治通鑑長編』大中祥符九年九月丁未条は宜秋門とする。宜秋門は開封府宮城の門名。
(8)同上注の『続資治通鑑長編』の李迪の発言によると、「玉皇に聖号を奉納する日が近いので、派兵は慎みたい」との意になる。張方平「大宋故推誠保徳崇仁守正翊戴功臣開府儀同三司太子太傅致仕上柱国隴西郡開国公食邑八千一百戸食実封二千四百戸贈司空侍中諡文定李公神道碑銘」(『楽全集』巻36)もほぼ同じ。なお『続資治通鑑長編』同条の李燾自注には、本条『涑水記聞』に錯誤多きことを指摘する。
(9)隴山以東の地。
(10)皇后のこと。
(11)宦官の周懐政が、病に倒れた真宗を太上皇帝に祭り上げ、皇太子を即位させ、皇后劉氏および権力者の丁謂・曹利用を粛清し、寇準を宰相に招こうとした策略を指す。寇準の言行録に詳しい。
(12)真宗の息子は早世したものが多く、このとき皇太子以外はみな死んでいた。
(13)ここでは財務を司る官庁の意。
(14)「〔天子は天下を財産とします。ですから〕天子の財産に〔天子の〕内〔側〕も外〔側〕もありません。〔ですから内から出して〕三司に『貸す』などと言わず、ぜひとも〔天下通有のものとして陛下の財産を〕三司に賜り、陛下の徳沢を高らかに示していただきたい」の意。
(15)『続資治通鑑長編』天禧元年九月癸卯条に同様の記事が引用されている。
(16)劉氏は章献皇后の一族を指す。
(17)『宋宰輔編年録』天禧四年十一月条によると、「昨夜、皇后以下のものはみな劉氏だった。朕を宮中に閉じ込めておるのだ」になる。
(18)太宗の息子、趙元儼のこと。
(19)李燾は『続資治通鑑長編』乾興元年二月甲寅条の注に本条『邵氏聞見録』を引き、真宗崩御のとき、既に李迪は遠方に排斥されていたこと、および『仁宗実録』による限り、元儼は真宗崩御時に病に倒れており、宮中に見舞いに来れなかったことを指摘し、本条を邵伯温の錯誤とみなす。
(20)宰相府のこと。
(21)中書省と枢密院。
(22)丁謂の宰相復帰は天禧四年(1020)十一月のことだが、その少し前、同年八月に銭惟演は翰林学士より枢密副使を拝命している。したがってこの記事は錯誤を含む。通常、丁謂の宰相復帰の制書を執筆したのは晏殊だとされる。
(23)以下は乾興元年(1022)の出来事で、李迪が再度左遷されたときの記述。ただし記事の内容に錯誤を含む。
(24)「無将」は「将にせんとするなし」のことで、心に反逆の意を持つことを指す。「不道」は大逆不動のこと。
(25)本条は詔書のこの一句を李迪に充てているが、本来は寇準に関係するものである。したがって本条は錯誤を含む。『続資治通鑑長編』乾興元年二月戊辰李燾自注を参照。
(26)『春秋』のこと。ただし「無将」は公羊伝の言葉である。
(27)小処州は軍事州のこと。「良好ならざる土地の州知事に任命せよ」との意。
(28)小処である上に「遠方」の意。「遠方」は開封府から千里以上離れた場所を指す。
(29)武階の名。
(30)李迪は乾興元年(1022)三月に失脚。しかし同年七月に丁謂も失脚。それにともない、同年十二月、李迪は舒州知事になった。
(31)明道二年(1033)四月のこと。
(32)景祐二年(1035)二月のこと。
(33)宋璟と姚崇は唐代の政治家。玄宗の治世を助けた名臣として知られる。両人とも『旧唐書』巻96、『唐書』巻124に伝がある。
(34)太宗の息子、趙元儼のこと。なお燕王は死後の謚で、このときは荊王だった。
(35)『宋史』李迪伝には、門下の僧侶の恵清を守闕鑒義にするよう要請があったとする。
(36)少し分かりにくいが、『宋史』李迪伝によると、このとき呂夷簡は物忌みのため休暇を取っていたとある。
(37)王曾は李迪が宰相の景祐元年(1034)八月に既に枢密使として朝廷に復帰している。したがって以下の記述には錯誤を含む。
(38)昭文館大学士は首席宰相が帯びる名誉職で、集賢殿大学士は次席宰相、もしくは末席の宰相が帯びる名誉職。
(39)緡は銭一千文。
(40)王曾は鄆州判事、呂夷簡は許州判事で、知事ではない。
(41)『龍川別志』の最後の件は説明不足と言わざるを得ない。王曾は発言に失当あるが故に、宰相を罷免された。しかし同時に、この騒動で呂夷簡の収賄事実も露見し、呂夷簡も罷免された。さらに仁宗が王曾と呂夷簡に後任の宰相を求めたところ、王曾は参知政事の蔡斉を、呂夷簡は同じく参知政事の宋綬を推薦した。このため仁宗は四者が党派を組んでいると考え、四人全員を左遷することにした。詳細は『続資治通鑑長編』景祐四年四月甲子条を参照されたい。なお王曾と呂夷簡に絡む『龍川別志』の記述には錯誤が多く見られるが、李迪の言行録であることを鑑み、ここでは詳細を省く。

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