二〇、最近思想界の一感

高畠素之


憲政擁護の、特權打破のといへる運動の餘燼を承けて、世間の人氣にはまだ相當の喧爭もあるらしいが、所謂思想界は極めて沈滯してゐるかに見受けられる。これぞといふべき特殊的な問題もなし、傾向として觀取さるべき顯著な思潮もなし、強いて求めれば、萎靡沈滯そのものを特色として數へるしかあるまい。

茲數年來、兎に角も流行勢力を支配して來た社會主義思想は、『アナかボルか』を合言葉とした闇仕合を名殘りに、地震と共に全く鳴りを靜めてしまつた。政治運動の認用とか、改良手段の利用とか頻に轉換策を講じてゐるやうであるが、これは自稱するが如き、現實の認識を根柢とした政策論ではなく、他の外的な事由に據つてその退却を餘儀なからしめられたものである。その限りに於いて、世上に謂ふところの社會主義思想の現實化とは見ることは出來ぬ。『あらゆる社會主義思想に寛容』であると共に、『思想のためにその人を拒』まざる日本フエービアン協會の成立や『内に於ては斷呼たる社會政策の實行であり、外に對しては公開外交の斷行である』として、それらの諸問題を『無産階級の立場より調査研究』する政治研究會の設立やは、寧ろ社會主義團體の倶樂部化と見るを妥當とする。

かかる事實を招致した直截的な原因は、何といつても例の大地震である。たとひ流言蜚語に過ぎなかつたにせよ、當時社會主義者の陰謀云々を傳へられ、民衆の反感憎惡を激成されつゝあつた折柄、當局はこの機會に乘じて社會主義者に對する一網打盡を敢行せんとした。少くとも、かゝる氣勢を示さんとしたことは確實である。大衆の多數者は未だ自覺せずなどゝ引かれ者の小唄にも似たる棄てセリフはいつて見たものゝ、身を以て危險の前に曝された經驗は、彼等をして此處に逃避せしめたのが當然であつた。元來が七三耳隱しから、オールバツク、髷無しへと變遷した婦人の髪かたちと同樣、その時々の流行對象として取扱はれてゐた社會主義である。當局の取締りが緩慢な間は、好個の玩具物として重寶がられもしやうが、それが爆發の危險か何かを感ぜしめるやうになつては、到底玩具として使用するには耐へなくなる。社會主義思想が忽ちにして、流行線上より姿を沒した好個の消息はまつたくこの作用に基いたものであつた。

然らば、流行線より陷沒した社會主義思想に代つて、如何なる新思想が隆起したかといふに、今のところ特にそれと認むべきものがない。相場なら持合といふところで、差詰めマシユー・アーノルドをしていはしむれば、『舊信仰亡びて新信仰未だ出でず』の状態である。沈滯とか萎靡とかいふも畢竟この故に外ならない。

しかしいつの時代にあつても、何か知らぬ形式で、觀念上の遊戲を追求する者は絶えない〔。〕思想が思想として一個の流行勢力を贏ち得るのは、彼等によつて特に或る思想が需要された時である。觀念遊戲を排すること最も苛酷な社會主義思想にしたところで、彼等の前にはその意味での玩具に外ならなかつた。或る者は憲政濟美的立憲政治主義を玩具する代りに、或る者は社會的正義感を自己陶醉する手段に、或る者は人道的義憤を排泄する道具として、夫々に社會主義を需要したのである。從つて玩具としての社會主義の需要衰退は、決して觀念遊戲者の絶滅を語るものではない。絶滅されない限り、更に他の玩具を求めて、それを流行勢力まで糶り上げるに相違ない。たゞ現在のところ、糶り上げの境地まで達したものがないといふに止まる。これ恰も、鴨縁江節廢れてスツトントン節その他の新勢力が行はるゝに至らず、古色蒼然たるサノサ節を、又しても蒸し返しつゝある演歌界の現状にも似たるものであらうか。

餘談はさて置き、最近の思想界にだつて、新學説新主張の提唱移植が全然なかつた譯ではない。しかし、それは何れもスツトントン節と同じく、世間一般の流行を形成する迄の力を有しなかつたのである。而も尚ほ此時に於いて、サノサ節にも比較さるべきは文化主義の復活である。勿論、茲に意味する文化主義とは、嚴密な學問上の用語に從ふのではなく、ある種の輕蔑感を伴ふほどの感傷思想を總稱する。基督教的人類愛思想、正義人道的世界市民思想、論理操縱的法教思想等は、皆この範疇に概括される。

凡そ文化思想なるものが、かゝる意味に於て、お誂へ向きに觀念遊戲的である。從つて、如何なる時代にあつてもその需要者は存在する。たゞある時には、他の思想が流行思想として社會的勢力を獨占してゐるため、その存在が薄れて見えることはある。日中太陽の照りつける時にも、三日月は天の一角にその姿を止めてゐるが、赫灼たる光に遮ぎられて、これを望むことが出來ない。しかし、やがて太陽が西山に沒し、夜の世界となれば、淡いながらも遙に光輝を示してくる。更に前述の卑近な例を以て證するならば、ある流行唄が行はれて次の流行唄が行はれるまでの間を、讀賣のヴアイオリンに、藝者の三味線に、屡々サノサ節が上せられるやうなものである。

無特色を以て特色とする現下の思想界にあつて、やゝ顯はな傾向と目すべき文化主義的思想の歡迎はこの意味に於いて、如上の三日月要素とサノサ節要素が作用してゐるからに外ならぬ。この事實を具體的に分析すれば、社會主義的思想の衰亡によつて、文化主義的思想の愛好者が特に目立つて來たことゝ、觀念遊戲慾の充足手段としての新流行思想が提示されないため、最も手頃なる文化主義的思想の玩弄者が多くなつたことである。

然るに鹿爪らしい評言を試みる論者は、今日のかゝる傾向を目して、社會主義の如き唯物思想が流行した反動として、時代人が理想主義的、精神主義的、人格主義的な文化思想を要求したと説いてゐる。野暮な愚論といふ外はない。社會主義は成程いふが如き唯物思想である。しかし、社會主義が唯物思想であると否とに拘らず、大方のこれが追隨者は、前述の如き觀念の遊戲をなす者に外ならなかつた。思想を單なる思想として消費する彼等に於いては社會主義たると文化主義たるとに根本の差異はなかつた。それ故に、唯物的であり過ぎたがために唯心的な思想を歡迎し出したのではなく、どこまでも三日月とサノサ節と見るが正確である。嘗て時代の觀念遊戲慾は社會主義に充足されてゐた。然るに社會主義の玩弄は外的な危險を伴ふに至つて廢れ、而かも未だ新なる遊戲慾充足の對象は發見されず、一時の間に合せとして卑近な文化主義を撰んだことが一面の原因である。更に一定數のかゝる文化思想捧持者は絶えないものであるが、時あつて社會主義の隆興勢力の前に光芒を隱したと疑はれても、その沒落と共に存在を明かにしたことが他面の原因である。この二原因が作用して、現象的には目覺しき文化主義への復歸とも見えたが、事實は社會主義流行時代に比して、量的にも質的にも變化はないといつてもいゝ。

これは一例としての現状説明であるが、流行思想の盛衰消長、及びその過度(1)期間に於ける文化主義への回歸は、原則的に如上の要素が作用すると見做して差支ない。もし異にするものがあつたとすれば、それは末葉の形骸だけの相違である。


注記:

※単純な誤植は適宜直した。
※句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。
(1)過度:ママ。

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