高畠素之


本書納むるところの前篇『マルキシズム概説』は『社會問題講座』のために、後篇『國家主義概説』は『社會經濟體系』のために、それぞれ獨立の一文として起稿したものである。初めから連絡を圖つて執筆したものでないから、茲に兩篇を合册して刊行することには些か無理がないでもない。しかし内容の上からいふと、兩篇の基底には一脈の關連が流れてゐる。

『マルキシズム概説』に於ける著者の批評的鋒鋩は、マルキシズム國家論の構造に向けられた。マルキシズム國家論の缺陷は、國家の本質たる支配の考察を等閑に附した點にある。これに對する著者の批判は、マルキシズム國家論の結論的政策を云爲する前に、先づ著者みづからの支配觀の展開に出發すべき筈であつた。しかし指定紙數の制限は著者がこの方面の考察に深入りすることを許さなかった。

この缺點は、後篇『國家主義概説』に依つて、幾分補充せられてゐると信ずる。ただ、この場合にも指定紙數に制限があつたため、國家主義思想史の項に於いて、國家社會主義の叙述に深入りすることが出來ず、マルキシズムの國家主義的方面の如きも、豫定のプランを反古にして全然葬り去るの外はなくなつた。これに對しては、前篇が或る程度まで補充の役目を演じてくれるであらうと思ふ。兎に角、兩篇互ひに補足し支持し合つて、茲に不完全ながら、著者一流の國家觀及びマルキシズム批判を彷彿たらしめ得たことは、不滿足ながら幸福であると思ふ。

國家論は今や、世界に於ける社會學界の最も魅惑的な研究主題となつてゐる。プロレタリアの現實的覇權進出は、マルキシスト學界に對しても國家論をその最重要研究主題たらしめた。身邊多事の著者は、この方面で心ゆくばかり讀書三昧に入ることを禁じられてゐるは固より、一册の原書をも落ちついて讀破する餘暇をさへ惠まれないことを遺憾とする。ただ、著者自身の體驗的實感を基礎とする推論は、時折りの氣まぐれ的讀書から集め得た彼れの斷片的知識を助成材として、茲に或る種の國家論構造をでつち上ぐべき途上に、著者を向はしめてゐることは事實だ。

本書は、その門出の一聲に過ぎない。國家論の悶えは、時代の懊みであると同時に、また、マルキシズムの魅惑を思ひ切れない著者の國家社會主義の懊みでもある。國家社會主義理論の完成は、著者一代のもがきである。今は、このもがきの片鱗を以つて、應急の刺胳と自慰する外はない。

昭和2年2月8日

高畠素之

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