第一講 國家及び國家主義

高畠素之

1.生物の社會的結合

私の擔任は『國家主義』であるが、紙數を甚だしく制限されてゐるから、細目にわたつて歴史的、具體的の叙述論證を與へることが出來ない。國家及び國家主義の大體の概念と古代から現代にかけての主もなる國家主義思想の鳥瞰圖を與へるに止める。それすら大端折りに端折らないと、中途で締出を食はされはしないかと恐れてゐる位である。

國家主義とは何ぞ。人類の道徳的、政治的、經濟的その他一切の社會生活を通じて、國家を最高の標準とし樞軸とするところの主義主張である。そこで、先づ、國家とは何ぞやといふことが問題となつて來る。

人間は社會的動物の一種である。如何なる人間も社會的結合のもとに生活してゐる。社會的結合のもとに生活する生物個體は、その結合を強大にすることに依つてのみ、十分に自己を保存し發展せしめることが出來る。

元來、生物の或る種のものに社會的結合が生ずるに至つた最も重要な原因は生存競爭上の必要にある。社會的結合の重要なる部分は、生存競爭上の武器の一種に過ぎないのだ。生物に依つては、猛獸や毒蛇の如く個體として特殊の武器及び戰鬪力を具へたものもある。かういふ生物は生存競爭上特に社會的結合をつくる必要がない。勿論、これらの生物にあつても、雌雄結合及び哺乳の上から或る程度の社會的結合を誘致するに至つてゐつことは事實であるが、生存競爭上からそれを必要とすることがないから、彼等の社會的結合は概して微弱である。

しかるに、個體として有利な武器を與へられて居らない生物になると、自己保存の必要上どうしても特殊な生理的武器の缺乏を補ふに足るところの有利な鬪爭武器を有たねばならなくなつて來る。その必要上發達したものが、即ち社會的結合である。つまり、強い牙や猛烈な體力に對抗するに社會的團合の力を以つてしようといふわけだ。この關係は恰度、今日の勞働者が、資本家の金力やその他の物質的權力に對抗するに團結の力を以つてするのと同じである。ただ、勞働者の團結は意識的、計畫的であるが、生物の社會的結合の發生は無意識的、原生的であつて、全く自然淘汰の必要上發達して來たに過ぎないといふ一點が違ふだけである。

2.社會的本能とエゴイズム

生物の社會的結合は斯樣に、主として生存競爭の必要上發達して來たものであるが、この結合の發達につれて又社會的本能が發達し、社會的本能が強くなればなるほど、それにつれて社會的結合も亦ますます強くなつて來る。しかるに、生物の本能の中では自己保存慾といふものが最も原始的な普遍的な要素となつてゐて、社會的本能の如きも本來は主としてこの自己保存慾から派生して來たものに過ぎないのである。

そこで生物の本能のうちには、絶えずこの兩要素間の鬪爭が行はれる。ほかに、種屬保存上の性慾本能も絡らんで來るが、その事は措いて問はない。この異種本能間の鬪爭は、人類に至つて更らに複雜になり深刻化されて來る。けだし、自己保存本能が社會的本能といふ對抗力を生ぜしめた如く、社會的本能は又猜疑心や優勝慾その他の如き一見反社會的本能と思はれるやうな對抗力を助長して、これが本來の自己保存本能と結合し一種の複雜なエゴイズムを構成することになるからである。そこでエゴイズムなるものは、人類にも他の凡ゆる生物にも共通した最も原始的の強力な本能であるが、人類のエゴイズムは他の生物に比して遙かに複雜であり總合的であるといふことになる。隨つて、その力の強さ、その影響の及ぶところも亦、他生物のエゴイズムに比して遙かに強力であり深刻である。

個々の人類はいづれも、程度の差こそあれ、かういふ複雜なエゴイズムの持主である。これが絶えず社會的本能と衝突する。社會的結合の立場からすれば社會的本能が不斷にエゴイズムを厭伏することを要するのであるが、特殊の異常な場合を除くほか、社會的本能の力のみを以つて個々人のエゴイズムを厭伏し統制することは不可能である。人類のエゴイズムは、曩にも述べた如く、單なる自己保存慾のみから成るものではなく、社會的本能から派生した各種の反對要素をも包含するものであつて、これらの要素は人類の發達が進み、欲望の分化が著しくなるにつれて、ますます複雜化してゆく傾きがあるから、人類のエゴイズムそれ自身も隨つて、擴大され深化される傾向を有つことになる。

3.支配機能の必然性

斯樣なエゴイズムの發動を若し勢ひの赴く儘に放任して置くならば、人類の社會的結合は遂に破壞されることを免れない。さればといつて、原生的の社會的本能のみを以つてこれを統制し調節するといふことは不可能である。そこで第二次の社會的結合素因として、茲に支配といふ機能が發動して來る。つまり各人が勝手のことをしてゐては社會がもち切れない、さればといつて、各人の胸に潛む社會的本能の力だけではこれをどうすることも出來ないといふところから、何等かの程度の強制を加味した支配の機能が發動して來るわけだ。これはホッブスやルソーの謂ふ如き、契約の形を以つて現はれるものではなく、最初は社會保存上の必要から自然的、無意識的に發達して來るのである。

これを今日意識的、計畫的に行はれてゐる事實に適例を求めるならば、かの通行人は左側を歩むべしといふ規定や、震災直後電車の不足した當時、乘車客に列を組ましめて我れ勝ちに先きを爭ふことなからしめた規定の如くである。各人のエゴイズムからいへば、右側を歩行したい者もあるだらうし、後から來ても先きに乘りたいとあせるのは殆んど萬人共通の欲望であるといつても過言でない。けれども、さういふ勝手なエゴイズムを發動する儘に放任して置いては、社會は火事場のやうな混亂を呈して、収拾すべからざる状態に陷る。若しこの場合、各人の社會的本能が勝を制して、誰れも彼れも自分の氣儘を制して他人に先きを讓るといふ風であるならば、特殊の強制的な統制及び調節を必要としないわけだが、さういふことは決して普遍的には行はれ得ない。そこで特殊の強制的規定を以つて、これを外部的に調節することが必要になつて來る。これは意識的、計畫的に行はれる統制の個別的場合について言つたことであるが、人類社會に支配統制の機能が發動し始めたことも、矢張りこれと同樣な社會的必要に迫られた結果である。ただ、違ふところは、それが意識的でなく、社會的自然淘汰の必要上原生的に現はれて來たといふ一點に過ぎない。

4.支配機能の特殊化

この支配統制の機能は、極く單純な形では如何なる社會にも發動してゐる。それは、幾人かの個々人が團合するとき、必らず其處に何等かの形で規則又は規約といふやうなものが成立するところを見ても解る。秩序の方面から見た社會は、すべてこの支配機能の現はれだといふことが出來る。尤も、この機能は同質結合の單純社會にあつては、他の社會的諸機能から分化獨立することなく、すべての機能が混淆して結合的に作用してゐる。それは恰度、下等生物の身體諸機能が、それぞれ特殊の器官を有することなく、すべてが混合的に作用してゐるのと同じである。しかるに、生物の發達段階が進んで、高等な生物となるに從ひ、各種の身體機能が互ひに分化獨立して、それぞれの機能を擔任する特殊の器官といふものができて來る。消化榮養のためには特に胃腸ができ、排泄のためには肛門や汗腺ができ、呼吸のためには肺臟ができるといふ如き有樣である。

恰度、それと同じやうに、社會が複雜となり、異質結合が進むにつれて、支配統制の機能が次第に他の社會的諸機能から分化獨立する傾きがある。支配機能の分化は、斯樣に社會的必要の上から生ずるものであるが、更らに人類にエゴイズムの中にあつて特殊の位置を占むる優勝的の欲望が、一度び現はれた支配機能分化の傾向を助長するところの主觀的因子として作用する。人類の欲望には色々あるが、とりわけこの優勝慾は強い決定力を有つてゐる。マルクスの唯物史觀に依れば、經濟上の生産力の發達が他の一切の社會的發達を決定するといふのであるが、この説は兎もすれば、物質的の生活慾が他の一切の欲望を決定するといふ意味に解され易い。斯く解されたとき、唯物史觀説は甚だしく卑俗化されたものとなる。人類の生活慾といふものは、決して普遍常住的に決定力を有つものではない。それが決定力を有つのは、人類が餓死の瀬戸際に立つた瞬間か、又は少なくとも生活難の境遇に置かれた場合に限られる。一度び何等かの程度に於いて生活上の餘裕を有つた瞬間から、他の各種の欲望、殊に性慾とこの優勝慾とが決定的に作用して來る。今日、資本家が巨萬の富を支配しようとするのも、これは決して單なる生活上の物質慾から來るものではない。生活上の欲望には限りがある。然るに富の欲求範圍には限りがない。限りある範圍の欲望を以つて、限りなき對象範圍を追求するといふことは理窟が立たない。資本家が限りなき富の擴大を追求しようとするのは、これ即ち富に依つて代表されるところの限りなき社會的權力を追求するのである。力の欲望、優勝的欲望には充足の限界がない。その充足範圍は、無限に擴大されてゆくのである。

優勝慾とは、自己の力を社會的に誇示し認識せしめようとする欲望である。この力の表現形態が何であるかといふことは、問ふところでない。それは物質的富の形を採ることもあれば、學問や、體力や、又は武術の形を採ることもある。けれども、その最も直接にして且つ普遍的のものは政治上の支配的位置である。この支配的位置の獲得といふことが、優勝的欲望の最も熾烈なる追求對象となる。而して一度び萌し始めた支配機能分化の傾向は、この欲望の發動に依つてますますその勢ひを強め、その勢ひが強くなればなるほど、この欲望の發動も更らにますます強くなつて來る。斯くして支配機能分化の勢ひは、ますます促進せしめられることになるのである。

5.階級支配の成立

この支配機能分化の傾向は、謂はゆる有史前期的種族社會に於いても、或る段階からは既に可なり著しく進んでゐた。當時すでに武將や裁判官の如きものがあつて、一部的にこの機能を擔任するといふ有樣であつた。けれども、この機能が總括的に分化獨立して、それが特殊の社會群に依り擔任されるといふ状態に達するには、或る特殊の社會的出來事を必要とした。

それは種族對種族の衝突である。種族衝突の原因は一樣ではない。食物缺乏のために、比較的食物の潤澤な他種族を侵すといふ場合もあるし、又は單なる優勝的戰鬪慾に驅られて衝突を惹き起すといふ場合もある。いづれの動機からにもせよ、一度び種族對種族の衝突が生じて、一方の種族が他方の種族に征服せられたとき、征服せられた方の種族は軍卒又は奴隷として優勝種族のために驅使せらる。茲に初めて征服的社會群と被征服的社會群との對立を來たす。と同時に從來種族内部に發動し發達してゐた支配統制の機能が、征服的社會群の手に歸し、茲に征服者は支配階級となり、被征服者は被支配階級となつて、階級對立といふ特殊の社會的現象を生ぜしめる。種族社會が一定の地域に占據して、その支配機能が斯くの如く階級といふ特殊の社會群の擔任に歸したとき、その社會を國家と名づける。隨つて、國家の本質的要素は地域と、社會と、階級支配といふ三分子から成る。國家は土地、人民、主權から成るといふ舊來の言ひ現はしも、畢竟するところ、同じ實質を異なつた形に、法制的、形式的の形に表現したものに過ぎない。

以上三つの分子中、もつとも注意を要するところのものは階級支配である。階級支配とは支配統制の機能が階級たるべき特殊の社會群に依つて負擔されたものを謂ふ。或は、支配機能を負擔した社會群は即ち階級であるといつてもいい。隨つて、概念的にも、歴史的にも、支配統制の機能が階級の成立に先行し且つ前提となることを要する。社會學者の中には種族征服といふ原因に依つて階級が成立し、隨つて又國家が成立するといふ風に説く人々もあるが(ラツェンホーファー、オッペンハイマー等)、如何に種族征服が行はれても、征服以前の種族社會内部に豫め支配統制の機能が働いて居らなければ、征服種族が支配階級となり得る筈はない。征服と共に支配が生ずると見る如きは、支配その者の本質に對する認識不足から來るところの淺見である。

征服以前の種族社會内部にもすでに強制秩序の行はれてゐたことは、征服後に來るべき勞働搾取の事實を以つて階級成立の原因なりと説くエンゲルスでさへも、或る程度までは認めてゐたところである。例へば彼れは、氏族社會に於ける嚴重な内婚禁止の規定、復讎の規定、裁判及び懲罰の機能等について述べてゐる(『家族、私有及び國家の起源』第6版77乃至79頁、102、120及び133頁)。勿論彼れは、當時尚いまだ『人民から分離された、而して人民に對抗せしめられ得る、何等の公的強力も存在して居らなかつた』(前掲100頁)と主張してゐることは事實だ。が、少なくとも氏族内部に於いて、斯かる機能分化への著しい傾向が開始されてゐたこと、強制秩序の維持を擔任すべき特殊の器官(裁判の如き)の發達は、階級の成立とは何等直接の關聯を有たなかつたこと、また公的強力の特殊な諸器官が發達するやうになつてからも、これらの器官はエンゲルスの主張する如く氏族社會の外部又は上方に立つ官職として發達したものでないことは、もはや爭はれない事實となつてゐる。(ケルゼン著『社會主義と國家』1923年版96頁)

斯樣に、征服以前の社會内部にもすでに支配統制の機能が發達してゐたからこそ、征服の事實が階級支配成立(隨つてまた國家成立)の條件となり得たのである。それ故、征服の事實は階級又は國家成立の原因ではなく、單なる必要條件又は機縁と見るべきであつて、原因は寧ろ支配機能の分化特殊化といふ先行事實にあつたとせねばならない。が、いづれにしても、階級支配といふことが國家成立上の本質的要素となるのである。

6.歴史上の國家主義

國家主義とは、斯樣な國家を以つて、一切社會生活の最高基準たらしむべしと説く主義主張である。隨つて、理想的意味に解した國家主義は、狹義の政治部面にのみ局限せらるべきものではない。政治部面はもとより、道徳的、經濟的、その他一切の社會的部面をも包擁すべきである。例へば、國家本位の立場から見て如何なる經濟制度を妥當とすべきかといふやうなことも、勿論國家主義の重大な要素とならねばならぬ。

けれども、これは理想的意味に解した國家主義であつて、歴史的に現はれた國家主義思潮は必ずしも斯樣に包括的でないのみならず、國家概念の點に於いても、多くは暗中模索の状態にあつた。或るものは哲學的方面に際立つて國家主義的傾向を示してゐるかと思へば、或るものはまた單なる政治上の政策としてこの傾向を示してゐるに過ぎず、更らに他のものは、純然たる經濟政策としてこの傾向を示してゐるといふ如き有樣である。そこで上述の如き理想的意味の國家主義思想を完全に提供したものは、歴史的には殆んど無いといふことになつてしまふわけであるが、少なくともこの理想的標準から見て國家主義の共通範疇に包擁せしめられ得べき部分的傾向は、ギリシァ以來あまた現はれてゐる。私は本文の歴史的叙述部分に於いて、これらの傾向を一わたり概觀して見ようと思ふのであるが、その前に一應、上述の如き國家概念の立場から見て、國家主義と特殊の支配形態(君主制、共和制、又はアリストクラシー、デモクラシーといふ如き)との間に、何等かの必然的な特殊關係が存するか否かを考察して置く必要がある。

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