ムツソリーニ論

高畠素之

一 映畫『永遠の都』

明けて一昨年の暮、それも押つまつた二十三四日頃だつたと思ふ。映畫の變り目とあり、例によつて例の如き怪奇的な廣告が夕刊に巾を利かしてゐた。中で一つ、特に興味を刺激されたのは、東京館の『永遠の都』といふ題名のそれである。『伊太利首相、黒襯衣團首領ムツソリーニ氏主演』なる手前味噌を、まさか文字通り盲信した譯でもないが、米國の某映畫會社が伊太利までロケーシヨンに出掛け、フアツシオの宣傳寫眞を撮影したといふ噂を聞いてゐたので、傍ら彈壓の片鱗を瞥見せんとする茶氣も手傳ひ、氷雨そぼ降る中を御苦勞にも淺草まで遠征した。ところが、主演といふ觸れ込みにも拘らず、肝心の『彈壓』は大會の席上で演説してゐる實寫と、コンスルのデスクに倚つてペンを走らせてゐる實寫と、それも宵の明星よろしくチラリと姿を見せるだけ、片鱗を捉へやうにも近眼をかこつの外なかつたことを記憶してゐる。

しかし、その朧げな視力を通して瞥見し得た印象は、一言に盡せば妙に化物染みた感じだつたことである。普通の人間に比較すると、顏の造形ばかり厭に大きく、蛞蝓を二つ重ねたやうな上下の唇を動かし、面積的にも體積的にも巾廣で部厚な手を振り、その顏に比較して尚ほ且つ大きい慈姑のやうな例の白眼を剥かれた時など、どうやら梅幸の四谷怪談を見るやうな不氣味さを覺えた。相貌に於ける斯うした畸形感は、彼れの思想乃至性向と不可分の關係を有するらしく、若し東洋流の面ら魂といふ言葉が許されるならば、この不氣味にして不均整な相貌こそ、彼れの全貌を表象する運命でなければならない。鍛冶屋の伜から小學教師となり、それから革命的サンヂカリストの群に投じ、乞食の如く官憲に追ひまわされた身を以つて國家中樞の獨裁權を掌握せるまで、その數奇無限の過去は言はずもがな、『反動的』行動に出でながら、所謂反動派と抗爭し、社會主義的政策を採りながら所謂赤色派を排撃する現在と雖も、彼れの出頭沒頭は飽くまで常人の格調を破つてゐる。隨つて彼れを、何れの意味からにしろ一個の典型として見るのは誤りで、特に一定の主義に對する殉教者と解するのは誤りである。

現に彼れの實際家たる面目は、右の『永遠の都』なる一篇の筋書によつて明瞭に看取せられる。當時の記憶にして誤りなければ、デヴイツドと稱する親なし子が、乞食の手から救はれて平和主義の老學者に養はれ、その娘との熱愛にも拘らず祖國の難に赴いて戰場に馳驅し、やがてはフアスシスチに投じて赤色暴徒と戰爭成金とを退治る、といふのが大體の經緯であつた。

お定まりの藝術的價値を云々する段になれば、古都羅馬を背景とせるモツプの扱ひに多少の感心があつたのみで、主人公に扮したバート・ライテルも、女主人公に扮したバーバラ・ラ・マールも、敵役の成金に扮したライオネル・バリモアも、共に俗臭粉々たる米國映畫の低級さを呆れさせたに過ぎない。が、唯だこの一篇中のモテイーヴとすべきフアスシスチの宣傳的効果からいへば、隨所に感心させられる部分が多かつたのは事實である。即ち無名の一青年が、平和主義や戀愛感情を突破して國旗に忠良なりしこと、同じくその立場から非國民的な暴徒や成金を蹂躪すること、而もその故に『馬の骨』たる分際を以つて、彈壓宰相から最高の名譽と戀愛とが是正されること、等、等、等。大手搦手から黒襯衣團の功徳を宣傳する用意周到さは、どうして『初戀の味』で賣り出したカルピス主人の料金負擔で、新聞全頁のメツセーヂを日本國民に廣告した以上の手際である。

それもこれも、莫迦らしいといへばそれ迄だが、氣恥づかしさを一段の高さから克服し、清濁併合の氣持ちに直入し得るところは、生れながらなる彼れの偉大さを表明したものである。この稚氣あり、この衒氣あり、而してこの洒落氣あつて、初めて有象無象を掻き集め得たのであらうし、同時にまたこの烏合の衆を以つて天下を取り得たのであらう。その點、彼れが常に比較されるマツヂニーなどと違つた意味で、或る時代的な新しさを感受せしめる所以である。

以下すこしく、彼れの生涯と人物について妄評多謝するつもりであるが、當否の判斷は素より勝手に下して頂きたい。

二 蛇は寸にして

ムソリーニ、その名をベニトー、一八八三年七月二十九日伊太利は東海岸のフオルリク縣プレツタピオといふ寒村に生れた。父はアレツサンドロといつて鍛冶屋を業とし、母はローザといふ女教員である。兄弟は二人、弟のアナルドーは後年に兄貴の新聞經營を助け、フアスシスチの隱れた功勞者となつた。甚六にも拘らず、ベニトーは手に負へない腕白小僧で、三ツ兒の魂を多分に藏し、近所近邊の憎まれツ子で通つてゐた。それでも母親の希望で、どうやら師範學校だけは卒業し、十九歳の時に初めて小學校の教員となるを得た。當時の彼れは、腕白の名殘りを留めながらお多分に洩れぬ青春の憂鬱に陷り、些か鬼の霍亂たるを免れないが、暇さへあれば文學書を耽讀し、自分でも進んで詩や小説を書いてゐたと傳へられる。傳記によれば、それらは總て天才の閃きが輝いてゐたとあるが、素より眞僞の程は保證の限りでない。

しかし根が傲岸不屈で、而も野心勃々たる彼れであつたから、間もなく教員をやめ、井中の蛙が大海を志す煩悶よろしくあつた後、僅かばかりの金を懷ろにして瑞西に出發した。ちやうど國境に差しかかつた折りも折り、新聞紙は彼れの父親アレツサンドロの捕縛を傳へた。

元來、彼れの父は堅氣の鍛冶屋を生業としてゐたが、この子にしてこの親ありの譬に洩れず、深くもバクーニンの思想に傾倒し、土地の社會主義者連の親分として通つてゐた男である。茲において流石のベニトーも、行かうか戻らうかの岐路に迷つたが、ままよ乘りかかつた船といふので瑞西に向つた。だが、憧れの瑞西も決して彼れのために『幸ちある國』ではなかつた。パレトーの社會學を聽かんがため、あらゆる勞働の苦しみを耐へ忍んだものの、遠慮なく餓死の危險は切迫する。浮浪人として拘留される。各地を轉々する中に諸國の亡命客と知り合ふやうになる。それに親讓りの血潮も手傳つて遂に勞働階級の中に投じ、組合の組織や罷業の指導に專念することになつたのである。それがため彼れは瑞西官憲から追放される結果となり、河岸を代へ佛蘭西に渡つたものの、そこでも同樣な運命は彼れを待ち設けてゐた。唯だしかし、佛蘭西遊行が彼れに幸ひしたところは、多くの革命的サンヂカリストと交る機會を得たことであつた。殊にジヨーヂ・ソレルからは、南歐人特有の熱情をいやが上にも煽られ、總同盟罷業によつて遂行する革命の烽火に、詩的興奮を唆られるところ多かつた模樣である。後年、彼れがフアスシスチ運動を起すに當つて採用せる戰術は、直接に當時の影響を反映せるものであつて、フアスシズムそのものも理論蔑視の傾向に於いて多分にサンヂカリズムと類似してゐるのは、かうした因縁からに外ならない。

佛蘭西を追はれてやむなく歸國すると同時に、彼れの唯一の安息所たりし慈母を失ふ悲運に際會した。母の死によつて蒙れる心的打撃は餘程ひどかつたものらしく、一時は悲嘆の餘り失神状態に陷り、暫らくは病床から離れなかつたと傳へられる。病氣恢復と同時に、天涯孤客の感じを痛切にした彼れは、又もや墺太利に入り、トレントの社會主義新聞『國民(イル・ポポロ)』の編輯人となつたが、茲でも筆禍を買つて三度目の追放命令を受けたのである。

斯うした周圍の迫害は、性來の負じ魂を一層昂揚し、社會主義による祖國革命の決心を却つて鞏固ならしめた。即ち故郷フオルリク縣に於いて週刊新聞『階級鬪爭(ラ・ロツタ・デイ・クラスセ)』を創刊する一方ソレル仕込の新知識を傾け、他日の總同盟罷業に備へるため各工場の『細胞』組織に專念した。それがため、翌年は黨の幹部會に擧げられ、その翌年はミラノに於ける社會黨中央機關紙『前衞(アヴアンチ)』の主幹となるなど、一躍して押しも押されもせぬ領袖の地位を獲得したのである。

以上は一九一〇年から一三年まで、僅か數年間の記録であるが、彼れはその間に於いて妻を迎へ一女を擧げたほか、トリポリ戰爭に反對して投獄される等、一身上の變化も經驗した。而も彼れの非戰論の論據たるや、社會黨流の常套口吻とは全く異り、國家に利益あれば植民戰爭も大いに結構だが、この戰爭は何等の利益を齎さないから反對だといふにあつた。言ふまでもなく、黨の領袖たる彼れが斯うした議論を公表したことは、物情を騷然たらしむるに充分である。曰く、餘りに國家主義的である、少しも社會主義者らしくない、といふのが非難の中心であつた。だが、ムツソリーニは『予の要望するところは經濟的竝びに精神的に二重なる貧困より國民を救ふにある』と豪語して、介意する色はなかつた。

斯うした經緯(いきさつ)が、彼れと他の領袖達との確執を來たすは當然である。彼等は彼れを非難し、彼れは彼等の民主々義的弱氣と朋黨的妥協性とを輕蔑し、好んで喧嘩を賣つて出たものである。『愛と憎しみの網の目が十重二十重に身邊を圍んでゐたから、寂寞たる人生も耐え得られた』のであらう。彼れのこの述懷によれば、寧ろ鬪犬と同じやうな生理的必要から、喧嘩を賣つたものと見える。また曰く、『予の半生は、勉強、鬪爭、貧乏の三字に盡くされる』と。實際その頃の彼れは、五十圓に足らぬ収入で生計を立て、邊幅を飾らず、粗食に甘んじ、無精鬚のまま默々と讀書に耽り、時に得意とするヴアイオリンを奏でて、僅かに憂ひを慰めるに過ぎなかつた。

三 天に聲あり

幾多の同僚との斯くの如き確執にも拘らず、ムツソリーニの迫眞力と實行力とは、依然黨内に重きをなすに充分であつた。隨つて彼れを支持する黨員も多く、また隨つて、領袖たる地位も主幹たる地位も搖ぎなく、寧ろ一九一三年から一四年にかけての彼れは、社會黨の唯一者として自他共に許してゐたのである。

斯かる形勢を持續する間に、世界大戰は勃發した。伊太利はこの時に際し、聯合側と協商側とから必死の誘引に攻められ、國内の輿論また甲論乙駁といふ有樣で、久しくその態度を決し得ないでゐた。社會黨は一も二もなく參戰に反對し、ムツソリーニもその機關紙に於いて伊太利が中立を嚴守すべき所以を切言したものである。

然るに如何なる理由か、ムツソリーニは翌十月に至り、突如として黨の決議を破り、嘗ての自説を抛つて對墺宣戰を布告すべきことを主張し、同時に『前衞(アヴアンチ)』を棄て新しく『伊太利國民(イル・ポポロ・デ・イタリヤ)』なる日刊新聞を創刊し、椽大の筆を揮つて主戰論を力説高調したのである。

その變化たるや實に突然である。バイロンの故智を學ぶなら、一朝眼覺れば、非戰論者ムツソリーニは主戰論者ムツソリーニに甦生してゐたのである。

ムツソリーニの斯くの如き態度豹變が、抑々何に因由するかといふ詮索は、全く不明であると共に全く不用である。或る傳記者はこれを評して、聖書に於けるポーロの轉機に比較し、凡人の計り知るべからざるインスピレーシヨンのせゐにしてゐる。必ずしも荒唐無稽の痴言(たはごと)として葬り去るべきではない。元々ムツソリーニは、合理主義を排斥するサンヂカリストであり、直觀主義のベルグソン哲學を間接的なりに繼承する者である。その限りに於いて、飛躍はサンヂカリストの特性であつて、彼れの影響者ソレルが加特力の僧院に隱遁した心理經過と、尚ほ具體的には山川均氏が議會主義に豹變した心理經過と、靈犀相通ずる所があるのであらう。それかあらぬか、山川氏が自己の豹變について何等の釋明を試みられたことがないのと同じく、ムツソリーニもまた嘗て彼れの所謂豹變につき辯解を試みたことがない。しかしインスピレーシヨンの効能を知らぬ我々だが、他人の疝氣を頭痛に病む程度に解釋すれば、凡そこんなことでもあらうかと目安だけつけられる。即ち戰爭によつて、國民の惡習と文弱を一掃し、對外的には伊太利の國際的地位を向上せしめると共に、對内的には經濟生活の革命を斷行し、延いて社會的價値の觀念を變更せんとした一事である。ムツソリーニに於いては、斯かることが伊太利革命の意義と解されてゐたのである。蓋し彼れがその演説で露西亞のボリシエヰーキ革命とこれを對比し、『伊太利はフアスシスチ革命を斷行した』と自讚してゐるのは、全く斯うした理由に出づるものと思はれるからである。

それは兎にかく、ムツソリーニの主戰論への轉向は、單り彼れの同志のみならず、全國民を驚倒せしむるに充分であつた。社會黨は直ちにムツソリーニ査問の大會を開きつひに大多數を以て除名することを決議した。當日ムツソリーニが要求されて壇上に立つた時である。あらゆる罵詈の聲は雨と降り、熱狂せる群集は身邊ちかく押し寄せて、今にも危險が迫らんかと怪ぶまれた。而も漸くにして口を開いた彼れは、要求された一身上の辯解には一言も觸れず、やをら伊太利社會黨の攻撃に移り、君等は優柔卑屈で、日和見主義で、小ブルヂオア的だとアベコベに毒づき、揚句の果は『諸君の手による伊太利革命は絶對に不可能である』と極言したのである。何と我が自稱革命家の口吻と髣髴たりながら、何とその意味の相違することよ、と更めて感心するの外はない。

この大會はムツソリーニをして、社會黨と永久の怨敵たるべく運命づけた。不屈傲岸の彼れは、これを動機として加速的に社會黨一派と分離し、やがては『反動的』諸分子と聯繋する結果を助長したとも言ひ得る。

『伊太利國民(イル・ポポロ・デ・イタリヤ)』に據れるムツソリーニは、何人の掣肘をも受けることなく、聯合側加盟の輿論喚起に努めてゐたが、翌一五年五月に至り愈々伊太利は參戰に決した。多情多感な彼れは義勇兵を志願し、漸く許されて伍長に昇進したが、一七年二月カルソーの大戰に敵彈を浴び、重傷の身を松葉杖にすがつて歸休しなければならなかつた。その後の彼れは不眠不休で活動を續け、筆陣に舌陣に倦むところを知らぬ有樣であつた。

『國家は否定すべきでなく、克服すべきである。民主々義とは標準を下げることでなく、下層階級をヨリ高い標準に上げることである。』『今度の戰爭は最初の中こそ民主的であつたが、今では大分貴族的になつてゐる。大衆の中から選ばれた最良の鬪士よ、これが今日の最大問題である。』實にムツソリーニの主戰論はそれが支配階級への迎合に非ずして、大衆の意志伸揚に外ならなかつた。

而してあらゆる舊套的なもの貴族的なものの爆碎こそ、彼れが戰爭參加によつて達成せんとした目的らしく考へられる。『伊太利は未だ若い。溌溂たる生命を有してゐる。しかしその政治形態は、餘りに老朽して役に立たない。』

ムツソリーニがフアスシズム革命の雄圖を、既にその當時から計畫してゐたといふのは、果して贔屓の引き倒しとのみ言ひ得るであらうか!

四 毒を以つて制す

論理的に見たフアスシズムは、デモクラシーの無力と無爲とに對する反抗として生れたと言ひ得る。それはムツソリーニが、議會政治を目して『その政治形態は、餘りに老朽して役に立たない』と、喝破したことに於いて有力に證據立られる。實際、戰前から戰後にかけての伊太利議會は、十三乃至十七の小黨に分立し、責任組閣の實力を有する政黨なきこと、恰も獨逸や佛蘭西の例と同じであつたが、その亂脈は兩國に比して更らに甚だしきものがあつた。そこで已むなく、ブロツク・システムによる聯合内閣を組織し、辛うじてその日暮しの政治を行つて來たが、歴史的竝びに階級的利害の複雜性は各黨をして相互に三すくみの状態たらしめ、些かも政治の實績を擧げることが出來なかつた。こんな鹽梅であるから、伊太利の議院政治は最初から腐敗の歴史を繰返し選擧干渉、官權濫用、投票買収、暴力行使といつた罪惡が無遠慮に繰返された。而もその複雜な政局は頻繁に政變を馴致するところから、解散に次ぐ解散といふ具合で、ますます議會の腐敗を助長した傾きが多い。

他方、社會的に見ても、伊太利は天然の資源に薄く、産業は萎微して振はず、それがため勞働階級には『危險』思想が充滿してゐた。殊に戰後に於いては、さらでだに疲弊せる國力が著しく疲弊し、産業の沈滯は各方面に失業者を出だすといふ状態で、財政の窮乏は言語道斷であつた。斯うした社會的不安は各地のストライキを誘ひ、勞働者の工場占領は病的流行となり、社會主義者や共産主義者の傍若無人ぶりは、ますます露骨に發揮されて停止するところがない。而も無力なる政府は、これを徒らに拱手傍觀するの外なく、露西亞に次ぐ伊太利の革命は單なる時日問題と觀測されたのである。

ムツソリーニがフアスシスチを次第に膨張せしめ得たのは、巧にこの氣勢を利用したからである。即ち赤色分子の反對毒素として、その亂行に正比して内容を増大し、在郷軍人、青年學生、農民等、雜多な分子のこれに來たり投ずるもの次第に多きを致すやうになつた。ムツソリーニは彼等に克己と奉仕を誨へ、秩序と訓練とを與へて、瞬く間に不動の勢力となるを得たのである。

事態が斯くなる上は、所詮赤色分子との衝突は免れない。最初の衝突はボロニヤに於いて行はれた。對手は一トたまりもなく黒襯衣に蹴散らされ、赤色派の出鼻はやや挫かれた形である。加ふるに社會黨は内訌に内訌を重ね、黨員のヒステリツクな騷擾が人氣を損ねた上、中央部に於いても、戰後ニツチ内閣に迫つて凱旋軍人の入京を阻止し凱旋門の撤去を行はしめたのに味を占め、陛下の勅語奉讀に革命歌を以つて酬いるといつた狂燥的態度を示すやうなこと多く、ますます人氣を喪失したのも自業自得である。

社會黨の勢力失墜すると見るや、フアスシスチは幾何級數的に増大した。そして翌二一年には、僅か三月の間に死傷者五千名を出だす程の猛威を逞しうし、やがて解散後の總選擧に際しては、一躍四十名の代議士を議會へ送る程の表面的勢力となつた。四十名の議員は素より議會を左右し得る勢力でない。だが、赤色派抑壓を以つて目前の關心事とする反社會黨聯合は、實際的に黒襯衣の暴力的保護を必要とする餘り、フアスシスチ黨に厭でも應でも屈伏せねばならなかつたのである。

ムツソリーニこそ旭日昇天の勢ひである。彼れは斯くして政爭の眞ツ只中に乘りだした。そしてボノミ内閣を威嚇して退かしめた上、酢だの蒟蒻だのと駄々をこね、オルランド、デ・ニコラ、ヂオリツチ、フアクタと堂々めぐりをさせた揚句、最も無力なフアクタに政權を取らせた。ところが上り氣味のフアクタは、目前の急場を凌ぐべく社會黨案の財産税重課を採用したといふので暴れ出し、たうとうこれを倒してしまつた。斯くて伊太利は、又もや無政府状態に陷つたが、フアスシオの暴力威嚇と社會黨の罷業威嚇に震えあがつた政治家共は誰一人組閣の責任を引き受ける者なく、やむを得ずフアクタに改造内閣を組織せしめた。

『今や伊太利には二個の政府が存在する。一はフアクタによつて代表される虚僞の政府であり、他はフアスシスチによつて代表される眞實の政府である』――この傍若無人な宣言をなしてムツソリーニが堂々五十萬の黨員と三十萬の義勇兵とを擁して羅馬に進出したのは、それから僅五十餘日目のことである。

五 水火を辭せず

伊太利に於てフアスシズムが如何なる社會的乃至政治的必然を胎んで生れたかといふ問題は、如上の概觀で簡單ながら大體の見當がついたことと思ふ。そこで今度はフアスシズム又はフアスシスチについて、いま少し分析的な調査を進めて見たい。

先づ最初に、フアスシオといふ言葉の意味から詮索したい。これは『縛り合つたもの』即ち『結束』といふ意味なさうである。一論には古代羅馬時代にフアスシと稱する飾杖(かざりつゑ)があつて、それが正義を象徴する武器として、尊重されたところから出たといふ人もある。しかし下位春吉氏の説によれば、それは全然虚構の事實なさうである。若し然りとすれば、フアスシオの名稱そのものが武斷的だといふやうな非難は當らぬことになる。

フアスシスチは黨旗として黒旗を用ひ、制服として黒襯衣を着る。黒色が彼等と如何なる因縁を有するのか詳でないが、恐らく赤色に對する無政府黨の黒色みたいな話しであらう。黒襯衣と共に、彼等には常に佩用するところの徽章がある。それには『メ・ネ・フレゴー』(水火を辭せずとの意)の文字が刻印され、團體的規律を尊重する彼等の心意氣を表示してゐる。そして例の棍棒を掲げ、左手を高くあげ『ア、ヤア、ア、ヤア、アアラアラア』と呼び交し、隊伍堂々と市中を練り歩く彼等の示威運動は、さぞ勇壯活溌なものであらうと想像される。

しかし斯うした組織は、フアスシオが政黨的に組合的に大成された後のもので、その最初は如何に贔屓目にみても有象無象の烏合であつたことは疑ひない。現にヂオリツチ内閣の下に於て、盛んに市井で社會主義者と抗爭してゐた頃は、文字通りの暴徒に齊しく、訓練も統制もあつたものでない。蓋しそれは、フアスシオそのものが最初から確固たる理想に統一されたものでなく、國權伸張論者や赤化思想拒否者や、さては戰後の恩賞に不平を有つ在郷軍人やが雜然と集まり、唯事あれかしと喧嘩を賣つたに過ぎないのである。そんな譯であるから、フアスシオ運動の濫觴を正確に指摘することは出來ないが、一般的解釋ではダヌンチオのフイウメ占領を出發點としてゐる。だがそれは單なる結果で、遠くアンリコ・コラデイニーの指導する國民黨の活動が濫觴だとする見解もある。何れにもせよ、ダヌンチオも國民黨の活動と無關係でなかつた意味に於いて、彼れとフアスシオとが密接な關係を有することは否定し得ない。

戀愛詩人としてのみ知られたダヌンチオが、現實社會の正面に初めて姿を現はしたのは、大戰の初頭に於いて伊太利が獨墺に向ひ宣戰すべきことを強論した時に始まる。遲れ走せながら、ムツソリーニも亦主戰論を唱導し、茲に兩者の因縁は結ばれたが、ヨリ緊密な因縁は實ろ戰後に開かれたのである。

一九一九年十一月、ヴエルサイユ平和會議の結果、ウイルソンとこれを支持する英佛の干渉により、當然その手に歸すべしと思はれたフイウメは嚴しく拒まれ、伊太利國民の憤激は絶頂に達した。この國民的義憤を代表せるダヌンチオは疾風迅雷的に義勇兵を率ゐてフイウメを占領し、彼等の希望が容れられた一九二一年一月まで、獨立國の面目を確保したのであつた。當時彼れの麾下に參じた者は、大戰の凱旋將卒を始め、社會のあらゆる階級の熱情的分子を含んでゐたが、これらは何れも後年フアスシチの中堅要素となつた意味で、ムツソリーニはカヴールに對するマツヂニーの如く、ダヌンチオの正系を踏襲したとも言ひ得るであらう。

それはそれとし、ムツソリーニが社會黨の復讐に備へんとして第一フアスシオを組織したのは、ダヌンチオのフイウメ占領に先立つこと半歳、即ち一九一九年三月二十三日のことに屬する。最初わづか百四十五人の團體であつたが、創立に際しては一萬七千を算し、翌年は三萬、その翌年には五十萬、今では概算百萬といはれてゐる。フアスシスチが斯く急速の發達を遂げたのは、前述の如き社會的竝びに政治的理由に基くが、而もムツソリーニ自身の時代に對する洞察力は、彌が上にも増大を加へしめた感がある。例へば餘りに遊戲化した議會政治に對する絶望は、他方に何等か壓力的なものを讚仰する氣分を釀成しつつあつたが、慧眼なる彼れは早くもこの傾向に着眼し、暴力行使が烈しければ烈しいほど國民的人氣に投合し得ることを知り、必要以上の暴力行使をも敢てなし、以てその英雄崇拜感を煽揚した如き、時代に對する彼れの明敏なる洞察の然らしむるところでなければならぬ。これ即ち、彼れが一部の軍人や學生のみならず、資本家にも勞働者にも、商人にも、農民にも、あらゆる階級から崇拜を捧げられた所以である。

六 武器を逆用す

『年少にして社會主義者たらざる者は怯懦である。長じてこれを棄てざる者は痴愚である。』これはムツソリーニが、ある自由黨議員から彼れの變節を難詰された時、、當意即妙的に答へた遁辭である。しかしそれは遁辭なりに、主義乃至理想といふものに對する根本態度を語るものである。更にまたいふ。『事實は書物よりも、經驗は教養よりも、ヨリ大なる價値を有する』と。

これらの言葉から歸納して論ずれば、ムツソリーニの思想は『思想そのものを無視する思想』と呼ぶを適當とすべく、隨つてその表現たるフアスシズムも亦何等明確な概念を表示するものでない。少くとも主義の主義たり得るところの積極的意義を捕捉することは困難である。唯それなりに、消極的に斯々の主義と一致せぬといふことだけは明瞭にし得られる。以下すこしく彼れ自身の言葉を通してフアスシズムの檢討を試みたいと思ふ。

『我等の眼前に於いて現に行はるる戰後の經驗によれば、自由主義は既に敗滅したことが證明されてゐる。露西亞及び伊太利にあつては、自由主義的理想を度外視して、立派に統治し得ることを證明した。コムミユニズム及びフアスシズムは、自由主義の圈外に立つものである。』『フアスシズムは一切の偶像を認めず、且つそれを尊敬せざることを銘記せよ。新時代の青年は扮飾せる自由の女神像を蹂躪し、更に必要ある時は、再び舞ひ戻つてそれを蹂躪すべきである。』

自由主義に對する斯くの如き憎惡は、政治上には議會拒否の態度となつて反映し、經濟上には獨特の勞資協調論となつて展開される。

『私有財産制度より生ずる弊害は、階級鬪爭主義に代ふるに階級の共同勞働を以てし、勞働尊重の原則を確立することによつて輕減し得る。企業家は勞働者壓迫のためにその經濟的勢力を利用すべきでなく、國家の大部分が勞働大衆より成ることに思ひを致し、勞働大衆をして生活不安及び失業状態にあらしむるは、國家の偉大さを減損する所以なるを忘れてはならない。同時に勞働大衆も亦、國家のためにその安寧秩序を脅威するが如きことがあつてはならない。』

彈壓宰相に似もやらず、まるで協調會囑託の口吻である。だが、折角の注文を對手が肯じなかつたらどうなるのであるか。ムツソリーニは『それにつけても』と言はぬばかりに言葉を續ける。

『勞働者にも企業家にも恐れず、また煽動政策も金權政策も行はぬ鞏固な政府の存在によつてのみ、社會の平和は初めて保持し得るのである。』映畫『永遠の都』の筋書は、茲において初めて明瞭となつた。フアスシズムは、勞働者のためにも企業者のためにも存しない。唯單位的に包括した國民のためにのみ存するのである。

然らば國民と國家との關係は如何?『國民は國家を超越すべきである。』『國民は現存する國家の全メカニズムを破却すべきである。』ムツソリーニの理論は、茲に於いて一般政治學の常識圈外に飛び去つてしまふ。思ふにムツソリーニは、大戰參加によつて急速に昂進した國民的感情と、統一後なほ若くして未だ熟成せざる國家的感情と、伊太利人の斯かるギヤツプとを如實に代表したものであらうが、それにしても強力な獨裁權を主張する彼れが、國民と國家を斯く二元的に解釋するのは不思議である。而も不思議はこれに止まらない。彼れは政治上に於いてこそ熱心な集權主義者であるが、經濟上に於いてはこれに劣らざる熱心な分權主義者である。即ち統一的計畫は政治原則のみに適用し、經濟原則には適用しないのである。『經濟政策上の集産主義は、單に一個の思索方法たるに過ぎない。國家は決して現存する個人の集合に非ず、また經濟上、相互に事業の連絡を有する株式會社でもない。故にもし、各個人の特性を平均化せんとし、或はその創造性を無視せんとする時は、却つて各個人の生産力を減ずると共に、國家有機體の活動力をも減殺する結果となる。』

フアスシズムの斯かる政治的集權主義と經濟的分權主義とを評し、或人は皮肉にも國家サンヂカリズムと命名したが、啻に戰術といはず、ムツソリーニの思想乃至感情に於いても、多分にサンヂカリズムの影響が發見される。例へば、政治蔑視の傾向である。彼れはそれあるが故に、中央政府の退却を平氣で要求したり、傍若無人な獨裁權の執行を要求したり、果はメカニズムの名に於いて合意主義をコキ下したりし得たのである。これ恰も、彼れが目の敵にしてゐるフリー・メーソンと同じく、『國家内に國家をつくる』傾向に似てゐる。

要するにフアスシズムは、未だ星雲時代に彷徨すると言ひ得べく、寧ろその曖昧模糊たるところに、包容性もあり、融通性もあつて面白いとせねばなるまい。

七 多面錐體の頂點

ボリシエヰーキを過激派と呼ぶ如く、フアスシスチを國粹團と呼ぶ一般的習慣は、單なる文字の表面的意味により實體と似もつかぬ印象を與へてゐる部分が多い。ボリシエヰーキもフアスシスチも、今では一黨を以てよく國政を支へ、一定の組織によつて完全に統制を保つてゐるのである。

『我等は美術家がその傑作をつくるために、材料を使用するが如く大衆を利用する』と豪語したムツソリーニも、内外の情勢平靜に歸るや多少の民主々義的讓歩を聲明してゐるが、依然『命令をなす者は予一人である』といつた獨裁制を多面錐體の頂點に置いて強行してゐる。即ち内閣總理大臣兼攝四相として國政執行の任に當ると同時に、最高評議會を任免監督し、中央執行部を指揮監督し、國防義勇軍を指揮任免し、更にフアスシスチ國民黨を總裁し、フアスシスチ組合團體を統轄する等、千手觀音の如く何から何まで切り廻してゐる。全く驚嘆すべき精力である。

最高評議會はフアスシスチ寡頭政治の最高機關として、法制上には中央執行部を補助監督することになつてゐる。しかしその實、ムツソリーニの獨裁制を飾る樞密顧問官の如く、最高の實務は中央執行部が處理してゐる。中央執行部は集中主義の原則から委員四人制とし、最高評議會の選任にかかるものである。四人の委員は夫々監察局、宣傳局、新聞局、監督局を分擔してゐる。國防義勇軍は、一般軍隊に加はらざるフアスシスチの私設軍隊である。主として政治警察に携はり謂はば反對派威嚇の用心棒なのである。

フアスシスチ國民黨に至つては、黨員みづから首長を選任する資格なく、又みづから團體を管理する權能なき意味に於いて、政黨とは單なる名稱のみである。しかしこれは根が烏合の黑襯衣團を中央集權的に組織したもので、國防義勇軍の現役的意義に對する豫備的意義を有し、早い話が一種の革命機關を司どるに過ぎない。隨つて所謂フアスシスチ議員は、彼等によつて選出された彼等の代表者といふ譯ではない。尚フアスシスチ議員について一言すれば、一九二四年の總選擧で、彼等は四十名から一躍三百五十六名に激増したが、それにはカラクリがあつて『有効投票の二十五パーセントを得たる黨派は、下院五百三十五席の三分二を羸ち得る』といふ、篦棒な改正選擧法で得た數字なのである。勿論この改正選擧法に對しては、各黨が擧つて反對したが、ムツソリーニは得意の彈壓で鎧袖一觸し、遮二無二強行したといふ後日物語りがあつた。

それは偖て措き、次はフアスシスチ産業組合である。元來、ムツソリーニはサンヂカリスト出身であり、彼れ自身が勞働階級の組織と指導の天才であつたことは前述の通りである。隨つて彼れが第一フアスシオ運動を起すや、いづれ勞働階級をも吸収すべしとは何人も想像した所である。蓋し多數の勞働者、少くとも赤色組合に屬せざる勞働者は、社會主義者の暴威と議會の無力とに愛想をつかし、寧ろ黒襯衣團に好感を示してゐたからである。果して幾多の團體はフアスシオの傘下に來り投じ、同時に嘗ての同志たりしロツソニを始め、ペツツオリ、ラツヘル等も參加し、遂に一九二二年ロツソニを指揮者と仰ぐ勞働團體が、フアスシオの別働隊として新たに生れたのである。斯くして新フアスシオは日毎に多きを加へ、嘗て赤色暴徒として横行した分子まで吸収し、今では三百萬以上に達したといはれてゐる。これだけの勢力となつてしまへば、赤色組合もへちまもあつたものぢやないが、而も今ではこの新分子がムツソリーニを飽くまで支持し、以て極端右翼からの牽制を防禦する位置に立つてゐるから、彈壓宰相の今後の自由な活動は餘ほど面白いものであらうと思ふ。

この産業團體に竝行するもう一つの團體は、知識階級によつて構成されるところの組合である。これはヂアコモと稱する辯護士が統卒し、職業的知識階級團體、衞生團體、教育團體の三大組合に分れ、いづれもフアスシオ一流の縱斷的組織を以て固められてゐる。

斯くの如くムツソリーニは、逸早く内部組織を所謂細胞主義で固めると共に、國民生活そのものに對しても、國家を強大ならしめるには先づ經濟的効果を擧げよといふ見地から、經濟機能の改善を圖り、鐵道政策を改良し、金屬工業を奬勵し、電氣事業、石油事業等を補助し、さては行政、財政、税制をも根本的に刷新するなど、矢繼早に新政策を實行して僅數年間に、全く見違へるほどの業績を擧げた。その他對外的には移植民地の開拓を企て、外交政策の如きもニツチ以來の追從主義を放棄し、一流の我無者羅で伊太利の帝國主義を硬論し、押しも押されもせぬ地位を領有するに至つた。

『人にして帝國主義的傾向を有せざる者はない。國民にして強きを欲せざる者はない。若しこれありとすれば、その國民は滅亡する外はない。』『フアスシスチ政府は平和を政策とする。我政府は世界の平和を紊さんとする意志は毫末もない。ウイルソン流の陳腐な文句を用ふれば、伊太利は正當にして且つ永久的な平和を望むものである。しかしこの平和たるや、我等の正當にして且つ神聖なる利益を滿足せしむるに足るものでなければならぬ。』

その意氣の壯なことは、對内的のみならず、對外的にも何等外交辭令を加へようとせぬ。この壓力と直情こそ、ムツソリーニの身上といはねばならない。

八 盲人の象探り

多分の稚氣を露出してムツソリーニはいふ。『今は全世界を擧げてフアスシスチの讚美者と呪詛者とに二分されてゐる』と。言や些か奇矯であるが、フアスシズムに對する贊否兩論は全く極端と極端である。これ何に起因するかといへば、盲人の象探りの譬に洩れず、單なる一局面のみを見て感情的に好惡を決定してしまふからである。當時の伊太利に取つて議會的無力と赤色的攪亂とを防止する途は、國民的處女參戰によつて昂揚された愛國的情熱に對し、これに一定の方向を與へて反對毒素となす外方法がなかつたのである。その限りに於いてムツソリーニの運動は善惡正邪の彼岸に立つ一の社會的必然の現はれと解する外はない。誠にムツソリーニの偉大は無比である。けれども、若し彼れを英國に生れしめたなら、決してあれだけ華やかな事業は成就し得なかつたであらう。時難にして英雄現はるといふ。その筆法から行けば、伊太利の特殊的國難が彼れを生んだといひ得べく、假りにレニンと生國を轉倒せしむれば、レニンもフアスシスチ革命の手段に出でたかも知れないのである。而も單なる外部的結果のみを見て、レニンの革命を共産主義的なるが故に是正(或は拒否)し、ムツソリーニの革命を『反動的』なるが故に拒否(或は是正)するといふ如きは、愚の骨頂といはねばならぬ。齊しく特殊の社會的必然と、國民的性向とに立脚するものであるから、直に以てこれを日本に移殖すべしと考へるのは、餘りに物の道理が判らな過ぎやう。

而も物の道理の判らないのは、何も斯うした連中だけに限らない。例へば横文字心醉派である。彼等が假りに英語を讀めば、直に英語國民の判斷を無批判に受け容れ、伊太利の帝國主義を云々し、獨裁政治を惡魔の權化の如く罵倒する。しかし英國民が帝國主義を云々するのは、伊太利の強大が直にアドリヤ沿岸その他の利害衝突を豫定するが故であり、米國民が暴政を云々するのは、彼等が神樣の御宣託と心得るデモクラシーを遵守しなかつたが故である。しかし伊太利それ自身にして見れば、衣食足つてこそ贅澤もいはうが、國家的破滅を控へて他國の氣嫌氣褄を取つてゐる餘裕があらう道理はない。全く不必要なお節介である。

斯くの如く伊太利にあつては、ムツソリーニの出現も、フアスシスチの生起も、悉く社會的必然に立脚するものである。無論、色々な不平分子もあらうが、謂はば自己の暖簾を取られたことに對する私憤で、これを一々取り上げ強て『輿論』にしなくともよろしい。單なる暴力的脅嚇と熱病的發作の所産と見るべく、フアスシスチの團結は餘りにも組織的であり、且つ決定的である。隨つて、ムツソリーニの暗殺が成功しやうがしまいが、フアスシオの勢力は不動と見る外はない。勿論、ボリシエヰーキに内訌が絶えないやうに、フアスシスチにも幾多の内訌要素は伏在してゐる。例へば、ムツソリーニの施爲施設を手緩しとし、制止を破つて街頭に頻々暴行をなす右派と、反對に、彼れの政策が無産大衆本位でないと言つて非難する左派との抗爭、さては第一フアスシオ(黒襯衣團)と新フアスシオ(産業團體)との確執等、小波瀾は時々あるが、ムツソリーニの旗本たる正統派は結束してフアスシスチの大を勵成してゐる。現内相たるフエルデルゾニー、現書記長たるフアリナツシーは、夫々正統派の勢力を代表し、一は表面の女房役たり、他は裏面の留守師團長たり、共にムツソリーニの後繼者として思慕されてゐる。更に軍部方面には、年少氣鋭のバルボと老練熟達のボノとがあり、これも後顧の憂ひなからしめてゐる。

今やフアスシスチ革命も、破壞時代を經過して建設時代に入つた。元來が多血漢の集團であるから、鬪爭の外部的標識を失つたために、或はこれが内部の軋轢に轉化せんかといふ懸念もないではない。しかしそれがため全勢力が分裂するといふやうなことは、今のところ先づ考へられない。恐らく次第に自然的必要から或る程度まで民主化しながらも、三ツ子の面影を示して新伊太利の中心勢力を保持して行くことであらう。

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