世界舞臺の三人男

高畠素之

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明治維新の三傑として西郷、木戸、大久保を算へ、伊太利建國の三傑として、カヴール、マツヂニー、ガリバルヂーを算へるやうに、時代の代表人物に三名を選定するのは東西古今を通じての常則であるらしい。そこで『世界舞臺の三人男』といふ課題を提供されることになつたのであらうが、萬人に異議なき三人物を拾ひ出して來ることは、如何にも容易でありさうだが實は甚だ容易でない。殊に現代といふ概念の決定如何では、釋迦やキリストやマホメツトも、現代人の精神生活を支配してゐる意味でその三傑に算へられやうし、ワツトやカートライトやエヂソンやの科學者、マルクスやクロポトキンやレニンやの社會思想家、その他凡百の範圍で凡百の三傑三士が發見されるであらう。若し現代の意味を局限し、現に生ける人間の間から求めるにしても、學者、軍人、實業家、思想家等、毛色の相違は直に人物の相違に導くべきを以つて、いづれを三傑としいづれを三士とすべきか甚だ迷はざるを得ない。

加ふるに現代は、デモクラシーの時代と稱せられるだけあつて超凡的英雄が少く、一國一代を統率する人物としてはムツソリーニとレニンぐらゐのもの、而もレニン他界せる後のロシヤには中樞人物を缺き、人物らしい人物はムツソリーニの一傑を算へるのみ。ケマル・パシヤやリザ・カーンや、さてはガンジーやザクルールやは、白人專制に對抗する傑士として有名であるが規局は小であり、ヒンデンブルグやポアンカレーでも、彼れに比較すると遺憾ながら壓力が薄弱である。そこで滿場起立で贊意を表する唯一の人物としてムツソリーニを擧げても、これと鼎立すべき他の二人物の發見が困難となつてしまふ。而も課題は飽くまで『三人物』である以上、跛行的なりにも誰れか尤もらしい人物を搜し出して來なければなるまい。

私は敢てフランスのブリアンと、イギリスのマクドナルドとを組み合はせ、曲りなりにもこのトリオを成立させたいと思ふ。言ふまでもなく、この二人を持ち出したことは、何にも私が特に彼等の人と爲りに敬服するからでなく、取り立てて好きな人物だからといふ譯でもない。あれやこれやと物色した揚句、主義者上がりの三つの毛色を代表する人物として、彼等相互に多大の因縁を發見すると同時に、現役と豫備との相違はあつても、共に歐洲政界の立役者たる點に多少の人物的要素を發見し得たからに外ならない。選擇の當否は、素より拙者に於いて責任を負はぬつもりである。

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先づ最初はムツソリーニである。彼れの人物や思想については、これまで色んな雜誌新聞に書き散らして來たから、これから言はんとすることも或は知る人ぞ知るであらう。が、兎に角も現代の人物としては、彼れこそイの一番に指を屈せられる男でなければならない。

ムツソリーニその名をベニトー、一八八三年イタリーは東北岸の寒村に生れた。父は鍛冶屋で急進的な社會主義者、母は典型的な良妻賢母で女教員、その長男に生れた彼れは手のつけられぬ腕白小僧だつたが幸ひに頭腦だけは明晰、退校と轉校を繰返しながら師範學校を卒業し、十九の時に小學校の校長となることが出來た。居ること一年、青雲の志を抱いてスヰスに向つたが、留守中父が革命運動の嫌疑で投獄されたことと、みづからも衣食に窮して各種の勞働に轉々する間に諸國の革命客と交遊せる結果、いつしか極左端の社會主義的洗禮を受け、追放に續く追放でスヰスとフランスとオーストリーと、そしてまた故國とを放浪しなければならなかつた。その間に彼れは、妻を迎へ子を儲けたが一ケ月の収入は四十錢足らずといふ状態、あらゆる貧苦と壓迫とに當面しつつ、演説に文章に實行に運動を續けたのである。

當時の亂暴狼藉ぶりは徹底したものであつた。最初の選擧に失敗したとき、彼れは憤慨の餘り投票箱を叩き壞して逃げ出した。皇帝が無政府主義者に狙撃されたとき、社會黨の領袖ボノミ(後の總理大臣)が見舞に伺候したといふので暴行を加へた。黨の大會がある度毎に幹部攻撃をやらかし、彼等が民主的で改良的であり過ぎることを難じ、いつも過激派の戰陣を切つてゐた。トリポリ戰爭に際しては非戰論を高唱し、それがため一年の懲役に送られねばならなかつた。その他、等、等。彼れは社會黨内での亂暴者で名を賣り、次第に一方の勢力を築き上げ、機關新聞の主筆から押しも押されもせぬ領袖の地位を獲得したのである。

これほど亂暴者で過激派ではあつたが、然しおのづからにして『三ツ兒の魂』を藏し、彼れの思想は爾餘凡百の主義者連と違つて、飽くまで『現實的』なることを特徴とし、カラ元氣やツケ景氣で議論のために議論をするといふ空想的なところはなかつた。革命的であることは、それ自體が社會黨の無氣力を救ふ所以であり、延いてイタリヤの建國的意義に合し得る所以であるとの見地からなされたものに外ならぬ。そこで同じ極端派でありながら、獨特の立場が披瀝されてゐたと言ひ得る。

斯くて、彼れと彼等との分離は當然に豫想された。その機會は歐洲大戰である。

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歐洲大戰が勃發するや、他の諸國の如何なる社會黨も然りし如く、イタリヤ社會黨も非戰派と贊戰派とに分離した。後者の大將がムツソリーニであつたこと言ふまでもなく、彼れは『イタリヤ國民に古代英雄の精神を復活せしめること、世界に於けるイタリヤの國際的地位を向上せしめること、國民の生活と習慣とに經濟的革命を招來せしめること』の三個の理由を提示し、斯かる革命は戰爭に依つて始めて達成さるべきことを力説したのである。

彼れの革命概念が、社會黨的革命概念と一致するかしないかは別問題として、兎に角も彼れが、餘りに機械化し取引化した國民生活を鍛錬せんがため、鐵火の洗禮を必要とすべしと達見せる點には、おのづからなる理由が存する。斯くてムツソリーニは、言論文章で主戰論を説くばかりでなく、自ら戰線に馳驅して敵彈を浴び、一躍ダヌンチオに續く愛國運動の偶像となるを得た。

一方、ムツソリーニがその革命的情熱の稀薄を見棄てて去つた社會黨も、戰後の財界不況に激發された不平分子を糾合し、百六十人の代議士を送つて議會の第一黨となるや、盛んに政府を威嚇して政務の運用を妨害する、武装せる革命團は各地の工場を占領するといふ風に、内外呼應して政治と産業との破壞を開始したのである。ムツソリーニの率ゐるフアスシスチは、斯かる共産黨的兇暴に對抗して蹶起せる反對毒素であつたが、忽ちにして前者を壓倒し、堂々とローマに進出してフアクタ内閣の後退を強要する程の勢力となり、茲にムツソリーニの覇業は完全に樹立された譯である。

今やムツソリーニは一人で五大臣を兼攝し、獨裁專制の實權を確保しつつある。而も彼れの行ふ政策たるや、必ずしも謂はゆる反動的なものではなく、偏に國民本位の見地から資本家と同時に勞働者の犠牲を強要することがあつても、一流の彈壓手段ばかりで脅嚇してゐるのではない。『生産者、筋肉勞働者をして、知識勞働者と同樣に確乎たる教育に依り、各の部屬に於ける連帶責任の意義を諒解せしめよ。而して凡ゆる寄生々活と專横とを排除し、この生産者團體に可能な最大限度の利益を獲得せしめんため、その諸部屬間の衡平と協働とを確立せしめよ。』

この宣言に明瞭な如く、ムツソリーニ治下のイタリヤは筋肉勞働者と同時に知識勞働者を、即ち生産者を本位とする社會への、建設を急ぎつつあることが知られる。現に上院に於いては、下院の地域代表に對する職業代表の制度を施行しつつあつたが、最近は彼れの持論たる一院制度の確立を聲明し、同時にその議員は勞働團體(筋肉的と同時に知識的)の代表者を以てすべきことを内示するに至つたのである。破壞要素としての暴力背景を次第に疎遠ならしめた彼れは、フアスシスチ直屬の勞働組合聯盟を次第に鞏固ならしめ、殆ど全國の全組合を包括するに至り、漸くにして建國的意圖を表明したなどは、如何にも善い意味の現實主義者たることを語るものではないか。

彼れを當代の第一人者と推奬すること、俗論的人氣を離れても容認さるべきであらう。

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『議會政治は歴史の創造的因子たる個性を窒息せしめ、國家の制度を機械化せんとする』といふムツソリーニに對し、飽くまで議會主義の常軌を履み外さず、着々とその大を築き上げつつある人物は、先の英國勞働宰相ラムゼー・マクドナルドに外ならない。彼れは資本獨裁であると勞働獨裁であるとを問はず、苟くも多數意志の反映たる合法手段に訴へざる限り聽從せんとはしない。その意味で彼れは、デモクラシーの忠實な戰士と言ひ得べく、ムツソリーニ主義もレニン主義も專制獨裁の故を以て拒否してゐる。

マクドナルドを主義者上りと呼ぶことは、或は失當の譏りを免れぬかも知れない。といふ意味は、依然として獨立勞働黨の首領であり、第二インタの將帥である限り、嚴密な意味で社會主義を放棄したとは言ひ得ないからである。だが、當今の常識に從へば、平家に非ざるものは人に非ざる如く、ボリシエヰキーに非ざるものは社會主義者に非ずである。殊にマクドナルド自身も、喧嘩相手の共産黨から『裏切り者』の名を公然と冠せられ、これに何等の抗議を發してゐない以上、廣く『主義者上りの政治家』といふ範圍に入れることに差し支はあるまい。

勞働黨が第二黨の實力を以て内閣を組織したとき、内外のセンセーシヨンは著しく挑發されたが、同時に、『素人政治家達に何が出來るか』と見くびられたのも事實である。然るに首相たるマクドナルドは、内政方面でも色々な味を見せたが、外交方面ではロイド・ヂヨーヂも、エドワード・グレーも、ボナー・ローも、ボールドウインも、カーゾンも、取りかへ引きかへ手を燒いた英佛關係を良化し、戰償問題に目鼻をつけ、英露國交を恢復する等、どうして素人らしからぬ腕の冴えを示した。さすがのポアンカレーですら、彼れの『謙讓な態度には抗爭すべき武器がない』と述懷したさうだが、ポアンカレーがエリオと交替してからは、これにストレーゼマンを加へて宛然指導者の位置に立ち、安全保障問題を筆頭とする幾多の大陸的諸問題の解決に貢獻したのである。勿論これは、イギリスといふ國力の背景が助けたからに違ひない。だが、それにしても、幾多の專門外交家が匙を投げた難問題を、些かの讓歩的態度を示さず解決の曙光に近づけ得たのは、凡手ならぬ彼れの政治家的才能を立證する所以でなければならない。そのため最初の懸念に反して、國民的人氣は次第に増大し、遂にはシビレをきらしたダイ・ハーヅ連の毒殺に會ひ、愚にもつかぬキヤンベル事件で倒れるの已むなかつたことは、そこが素人の素人たる悲しさとはいへ氣の毒なものである。

然し野黨となつた以後の勞働黨は、倍舊の人氣を次第に培養し、一部づつ行はれる地方議會の選擧に於いては、去年も今年も壓倒的大捷を以て酬ゐられつつある。これを來たるべき總選擧に反映すれば、保守黨の牙城に肉薄するのも易々たる業だが、たとひ思ひのままに行かなくとも『陛下の反對黨』の最後的勝利は確實に豫想され得る。マクドナルドの光輝粲然たる將來も隨つて確想し得べく、數年後の世界は彼れの揮ふ一本の指揮棒に左右されるかも知れない。彼れも亦『現代の人物』たるを失はぬ。

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マクドナルドは、スコツトランドのハムステツド生れ、年輩も五十そこそこだつたと記憶する。素より貧乏人の子弟であつたから、イートンやハローの教育も受けず、ケムブリツヂやオツクスフオードの教育も受けず、普通のボード・スクールに通學したのみである。青年時代から新聞記者を業とした。英國社會黨とも稱すべき獨立勞働黨の創立に努力し、現在の寄合世帶たる英國勞働黨の成立にも與つて大なる力があつた。當時は十九世紀の終末から二十世紀の初頭へかけた頃だつたが、獨立勞働黨の幹事として、總務委員長として、院内總理として、遺憾なく英才を示した。然るに世界大戰が勃發するや、彼れはその持論たる平和主義を固執し、黨友のヘンダーソンその他は戰時内閣の椅子に就くといふとき、みづからは周圍の迫害に會つて一切の公職を退かねばならず、爾來數年間は侮蔑と排斥のため議席を得ることさへ不可能であつた。一九二二年には再び選ばれて院内總理となり、越えて二四年には宰相の印綬を帶び、數ケ月にして倒れるや、又もハムステツドの簡易生活に還り、新聞記者としての収入で衣食を續けてゐる。

彼れ白皙の美丈夫、音吐は玉の如く澄み、頗るつきの雄辯家だといはれる。文章は大して優れてゐるといふのではないが、簡にして要を得る筆法は爲人を偲ばせるものがある。讀書と散歩に日を送る彼れ、目下は黨務の劇職から離れてゐるが、又來ん春には再び大英帝國の宰相として活躍するであらう。

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ムツソリーニとマクドナルドとを叙するに枚數を費し過ぎたので最後のブリアンは簡單に切り上げることにしたい。

アリスチード・ブリアンは、前後九回の總理大臣を勤めた世界のレコード・ホールダーである。その他、平大臣の經驗を合計すれば無慮二十數回に及ぶべく、現在も財政難と國防難を一身に背負つて活躍しつつある。首相か外相か、大戰以來のフランス閣僚に彼れの名を見出ださなかつたのは、ほんの一度か二度くらゐであつた。如何に猫の目の如く政變するフランスにしても、共和社會黨の外樣大名でカラ馬に怪我なきブリアンにしても、これほど重寶がられるには、その政治的手腕の凡俗ならざりし理由が窺はれる。

現在のブリアンは典型的なオポチユニストとして有名だ。一定の主義方針などは最初からなく、徹頭から徹尾まで臨機應變、才氣にまかせて何事も一氣呵成にやつて退ける。その點で彼れは、常にイギリスのロイド・ヂヨーヂと比較されるが、鵺的存在といひ、雄辯といひ、風貌といひ、八方美人といひ、なるほど實によく似通つてゐる。唯だ人物の點に於いて、少しドツシリとした印象を缺く憾みはあるが、合縱連衡の手腕は却つて上位なるべく、それが大臣記録の保持者たる名譽を與へた原因であらう。

圓轉滑脱なること斯くの如きブリアンであるが、その以前はサンヂカリストとして革命煽動の親玉、幾度も投獄の憂き目に會つて來た。いつかの植民戰爭で勞働者に公然と總同盟罷業を強要し、兵士に脱走を宣傳したのは彼れである。國旗を堆肥に立てた男を辯護して(言ひ忘れたが彼れの商賣は辯護士兼新聞記者)有名になつたのも彼れである。さうした彼れも、一九〇二年に始めて代議士となるや、ジヨレス麾下の穩和社會黨に鞍替へし、政教分離案で奮鬪したお蔭で文部大臣の椅子を酬ゐられ(一九〇六年)、續いてフアリエール大統領の下に最初の内閣を組織するに及び(一九〇九年)、昔日の革命家は再轉三轉して、いつの間にか職業的ブルヂオア政治家と違はない男となつてゐた。殊に最初の宰相時代には、郵便從業員と鐵道從業員とに依つて行はれた二回に亘る大規模のストライキがあり、これを鎭壓する手段として彼れは徴兵令を逆用し、軍法會議に依つて片ツ端しから叛逆罪で處斷したのである。さすがの暴徒もこれには辟易したが、それ以來、彼れはロイド・ヂヨーヂと共に勞働者の二大仇敵と狙はれねばならなかつた。

尤も最近ではホトボリも冷め、彼れも遠慮なく如才のないところを發揮してゐるので、同じ經路のミルラン(前大統領)みたいに國粹聯盟の總大將を氣取る必要もなく、鵺的存在なりに誰も『急進派』として怪しむ者がない。しかし、彼れの急進的態度は、昔ながらの主義主張の餘映と見るよりは、寧ろフランス議會の政勢分布が急進的態度の採用を便利とするからで、その日の風の吹きやうでその場の舵を取るのが、鬼才ブリアンの政治的使命とするところである。この徹底したオポチユニスト振りは、ロイド・ヂヨーヂを除いて外に匹敵する者を見ない。『政治は時の勢ひである』といふ定義に從へば、機に臨み變に應じて神出鬼沒する彼れの如き、寔に得がたき政治家と稱するも過言ならざるべく、宰相記録の保持者たるも故なしとしない。ムツソリーニの『彈壓』、マクドナルドの『質實』に對すれば、ブリアンの『滑脱』も共に當代の珍寶たるを失はぬ。第一者が反動型、第二者が正動型、共に兩極の磁針を指示してゐるに對し、第三者はその中間的存在といひ得るであらふ。(1)



注記(初出論文との異同)

(1)文末、論文に「十一月廿五日」あり。

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