第一講 進化説と社會進化 ―ダーヰン説とデ・フリー説―

高畠素之

一、生物變化の原因

ダーヰン説は進化論の全部ではないが、進化論と言へば直ちにダーヰン説を意味するかの如くに考へられてゐる。それはダーヰン[Charles Darwin]の提唱した自然淘汰説が、他の學者の提説に比して完備するところが多かつたからである。然し自然淘汰説にも、幾多の缺點があることは否み得ない。

自然淘汰説の最も著しい缺點は、この學説を以つてしては、進化の直接の原因を説明することが出來ないといふことである。ダーヰン祖述者の中には、自然淘汰を以つて進化の原因と見做す學者が少くない。然しこれは大變な誤りである。

自然淘汰は既に存在する變化の淘汰である。變化がなければ淘汰はない。淘汰は變化を助長するが、變化の無い所に淘汰の行はるべき理由はない。即ち變化は淘汰の條件でなくてはならぬ。隨つて進化の原因、少なくともその直接の成因は、自然淘汰でなくて變化でなければならぬ。

ダーヰンも此事は十分に認めてゐた。ただ彼れは此淘汰の成因たるべき變化が如何にして生ずるかを説明し得なかつたのである。そこで彼れは生物學者のお定りの遁辭たる『自生』に隱れ場を求め、『自生變化』と言ふ言葉を用ひてゐる。即ち變化は自然に偶生するといふのである。これでは少しも科學的の説明にはならないのであるが、然し斯くの如き無理な遁辭に縋つて迄も變化を説明しようとしたところに、ダーヰンの慧眼がある。少なくともその祖述者の亞流でないことが判る。何故ならば、かく變化を自生に求めたといふことがすでに、淘汰以外の方面に變化を説明すべき論據の必要を認識したことになるからである。

二、淘汰は篩

兎に角、生物界に變化の事實が働いて、それが各種の新形態を造り出さない間は、自然淘汰は作用し得るものではない。斯くの如き新形態が發生した後に、始めて淘汰の力が現れて來て、そのいづれを保存し、いづれを破壞すべきかを決定する。

生物學者コーガンの指摘した如くに、自然淘汰の職分は、豫め提出されたものゝ存續を決定すること以上には出でない。かく提出さるべきものを造り出すのは、自然淘汰の權限外に屬する。デ・フリー[Hugo DeVries]はこれを説明して、『自然淘汰なるものは、畢竟一つの篩に外ならない。それは多くのダーヰン反對論者(また不幸にして多くのダーヰン主義者)に依つて屡々主張される所とは異なり、自然力ではなく、進化の直接の原因となるものではない。それは、いづれが生き、いづれが死すべきかを撰擇する篩に過ぎぬものであつて、進化の一歩一歩とは沒交渉である。進化の一歩が行はれた後、そこに始めて篩が働いて不適者を芟除するのである』と。コープ教授[Prof.Cope]の言葉を借りていへば、『自然淘汰説は、適者生存を説明することは事實であるが、適者の起原を説明し得るものではない。』更らにアーサー・ハリス[Arthur Harris]に從へば、『自然淘汰は適者のサーヴイヴアル(生存)を説明するとはいへ、そのアライヴアル(出現)を説明し得るものではない』のである。

新ラマルク派とワイズマン派との論爭は、この變化の原因を中心としてゐた。即ち前者は、生物個體がその全生涯に取得したる性質の遺傳に變化の原因を求め、後者は雌雄の異りたる胚種細胞の混合體に依つてのみ生ずると説いたのである。この論爭は大體に於いてワイズマン説の勝利に傾いたが、しかし双方とも實驗的に自説を論證することは出來なかつた。かくてこの問題に關する多年の論爭は、結局遺傳及び變化の闇が、如何に無限の奧深さを以つて横つてゐるかを知らしめたに過ぎない。變化の原因については、依然として『自生』の水準を一歩も越えてゐないのであつて、この問題の研究に畢生の努力を注いだデ・フリーでさへも、自説を稱して『自生變化説』と言つてゐた有樣である。

三、ダーヰンを誤るダーヰン學徒

然し變化の原因に就いては斯く五里霧中の状態を脱しないが、變化の樣式に就ては、ダーヰン以後驚くべき新發見が成し遂げられた。デ・フリーこそ實にその發見の殊勳者である。

ダーヰンに依れば、生物變化の樣式は、漸急さまざまである。即ち何百年といふ長年月の間、目に見えぬ微細の變化の蓄積に依つて新種の生ずる場合もあるが、これに反して、一夜にして大突變を遂げるやうな場合も無いとはいへない。ダーヰン自身は確かにこの兩面を許容してゐた。然るに後世、ダーヰン説と云へば、たゞ漸進變化を認めて、突變的變化を全然否定したかの如く考へられるやうになつた。これはダーヰンの罪ではなく、專らその祖述者、主としてワレース[Alfred Russell Wallace]の責任である。突變説の提唱者を以つて任ずるデ・フリーもこの事實は十分に認めて、『ダーヰン説に向けられた反對論の大部分は、その熱心に過ぎたる學徒の主張に對してのみ妥當である。而もこれ等の主張は、ダーヰン自身の文獻中には何等發見されないところのものである。後にも説く如く、この點に於ける最大責任者の一人は、ダーヰンと同時に自然淘汰説を發見した、アルフレツド・ラツセル・ワレースその人でなければならぬ』と、彼れは言つてゐる。

四、漸變説と突變説

ワレースは、一切の變化を目に見えぬ微細の變化のみとなし、名づけてこれを波動的變化と呼んだ。生物の性質は、岸邊に搖ぐ小波の如く絶えず動いてゐるが、それは動搖であつて變化の域には達せぬ。勿論、この動搖は結局變化を喚起する原因にもなるが、それには實に驚くべき長年月を要するのである。

デ・フリーはこの説を排斥して、生物の變化は決して斯くの如き不斷的動搖の累積から生ずるものではなく、何かの拍子で突然發現し又は突然停止するものであると説いた。彼れは大呼して曰く、變化は漸進でなくて急進である。貯蓄的にあらずして投機的であると。

五、月見草に得た暗示

これは實に彼れが多年の實見の結晶である。彼れは一日和蘭アムステルダム附近のヒルヴアサムに於て多數の月見草を發見した。これは學名をラマルキヤナと稱するもので、もと米國から移植された野生を好む植物である。デ・フリーの發見したものは、おもふに附近の公園から迷ぐれ出たもので、野生に還つてから約十年を經過したものであるといふ。其翌年、彼れは右の月見草の間に二つの全く新たなる種類を發見した。これに依つて彼れは非常なる暗示を受けたのである。

彼れは當時何本かの月見草を自家の庭園に移植して、前後十三年間の研究を遂げた。この十三年間に、五萬本以上の月見草が繁殖したが、その八百本は、全然他と異る性質を有するものであることが判明した。デ・フリーは苦心研究の末、これ等の八百本が七つの新種に大別せらるゝ事を發見した。一方彼れは、此等の月見草をば最初に移植したヒルヴアサムの原野を調べた時、此處にも同樣の現象が生じてゐることを發見した。

かくて彼れは、この些細なる月見草の實驗から、凡ゆる生物の新種も亦、斯樣に短日月の間に發生すべき事を提唱したのである。尤も彼れの主張する突變は、常に隨所に行はれると云ふのではない。米國カリフオルニヤ大學で試みた彼れの連講第四回は『定時的突變の假定』と題するもので、『月見草と同屬の櫻草は今のところ殆ど無變化状態に止まつてゐるやうに見える。然しそれは過去に於いて大突變を遂げた反動であるかも知れず、而してその當時は恐らく月見草の方が無變化状態を呈してゐたでは[ママ]なからうか。斯くの如き停止期と突變期とは、必らず多かれ少なかれ規則正しく、相互交代するものであつて、一切の事實は明かにこの結論を指示する』と云ふのであつた。

六、新ラマルク説の打撃

デ・フリーはまた生物の直接順應を否定することに依つて、新ラマルク説に致命的打撃を與へてゐる。

新ラマルク説に依れば、『變化は使用不使用の結果である』となす。彼等は曰く、『車夫の脛が太く、詩人の腕が細いのは、前者は屡々その脛を使用し、後者はその腕を使用することが稀なるがためである。この變化こそ即ち、いづれも使用不使用の直接順應の結果である』と。

デ・フリーは、この説に對して正面から否定して曰く『變化は使用不使用に囚はれず、凡ゆる方向に行はれるのである』と。これは要するにダーヰン及びその後繼者たるワイズマン[Weismann]の所謂『偶發的』變化を祖述したものであつて、スペンサー[Herbert Spencer]、ヘツケル[Haeckel]の如き、主として境遇に對する順應に變化の方向を求めたものと、正反對の位置に立つものである。

デ・フリーはこの問題に就いて、なほ次の如く言つてゐる。『自然の無駄と云ふことは、極めて重要なる現象であつて、正に一つの原則とも稱すべきものである。我々はこれに依つて進化學上幾多の困難を説明することが出來る。若し自然が一つの佳良なる新性質を作る爲に、同時に十若しくは二十、或はそれ以上の不良なる性質を作る必要ありとすれば、全く偶然的に進化の行はれ得ることを直ちに認容せねばならぬ。斯くて順應の直接的原因に關する一切の假定は徒勞に歸し、ダーヰンの提唱した大原理は再び至上の地位に就くであらう。』

七、生物學者と地質學者の衝突

デ・フリー説は以上の外、いま一つ在來の難問題を解くに有効である。それは生物進化が經て來た年月の長短に關して從來地質學者と生物學者との間に蟠れる意見の不一致である。即ち生物學者にとつては生物が今日まで經て來た期間は、實に幾億萬年に上らなければならぬのであるが、反對に地質學者の主張するところでは、概して遙かに短年月であるとされるのである。

地質學者ケルヴイン[Kelvin]は、地球の年齡を二千萬年乃至四十萬年と算定した。またジヨージ・ダーヰン[George Darwin]は、月が地球から分離した時を約五千六百萬年以前と見た。その他著明なる地質學者ゲーキイ[Gekie]は、地殻の年齡を高々一億萬年と概算し、ジヨリー[Joly]はこれを五千五百萬年、ヂユーボー[Dubois]は三千六百萬年と見た。いづれも生物學者の要求する所よりは、遙かに短少の期間である。

こゝに於いて『要するに、生物發達の年數は到底徐行的進化説の要求と一致しない。……斯くて生物學者の要求と地質學者の研究の結果とは、突變説を基礎としてのみ十分なる調和を見出し得るのである』と結論してゐる。

八、時代の犠牲者ラマルク

デ・フリーの變化説は概略以上の如くであるが、然らばこの變化説は社會的に如何なる意義を有するであらうか。これを説くには、少なくとも一世紀以前に遡つて、その以後の主なる生物學者の所説を對照し考察する必要がある。

近世に於ける最初の而して最大なる進化學者はジヤン・ラマルク[Jean Baptiste Lamarck]である。彼れは其絶大なる學識と不撓の勤勉を以つてして、猶かつ赤貧洗ふが如き境遇に物故せざるを得なかつた。これ彼が時の權力階級の利害に一致せざる新説を提唱したからである。彼れは當時の凡ゆる封建的勢力を敵とした。封建制度の要求する神學的色彩の濃厚なる思想が瀰漫してゐる當時に於て、彼れの反神學的進化説は、新興階級たる商工階級の利害に一致するものであつたが、商工階級は尚未だこれを自覺する程の域に達してゐなかつた。かくして彼れは落魄不遇の裡に一生を終つた。

九、佛國革命の代辯者キユヴイーエ

ジヤン・ラマルクに次いで現はれた大生物學者はキユヴイーエ[Cuvier]である。彼れは一面に於いて生物の進化を否定すると同時に、他面また天地突變説(キヤタクリズム)を主張した。彼れに從へば、生物は進化の結果として生じたものではない。

一切の生物は今尚ほ天地創造の當時と同一の状態を維持してゐる。たゞ、この宇宙間には隅々大突變が行はれ、その都度在來の生物は全滅して、新しき生物が生じ、次の大突變までは幾百萬年を經過すると雖も何等の變化を齎らさぬのである。

キユヴイーエの天地突變説は、正に佛國大革命の科學的代辯と見做すべきものである。革命以前に於いて歐洲の新興商工階級は、封建的勢力の壓迫下にあらゆる苦楚艱難を嘗め盡くした。實際、彼等にとつて、封建貴族を一擧に覆滅して自ら權力階級たらんと希ふより以上の願望は無かつたのである。さればキユヴイーエが、全能の神の聖名に依つて、宇宙の突變を提唱したことは、權力に渇く彼等商工階級の心には、正に大旱の雲霓でなければならなかつた。斯くしてキユヴイーエは時代の寵兒となつたのである。

然しながら彼れの説は、彼れの死と共に殆どその片影だに沒して終つた。蓋し商工階級がその權力者たる地位を全うすると同時に、突變思想に對する彼等の興味は次第に薄れて行つた。彼等は自ら權力者たるべく、社會の突變を要求したが、既に權力者に成り終せた時に於いては、現状維持の爲に全力を傾倒せねばならなかつた。彼等は斯くして戰鬪の使徒から平和の使徒へと變つて行つた。と同時にキユヴイーエの天地突變説は、一顧の値だになき迷信として彼等の腦裡から消え失せたのである。

十、商工階級のダーヰンと勞働階級のデ・フリー

ダーヰンが自然淘汰説を掲げて登場したのは、將さに此時である。勿論ダーヰンは進化を説き、變化を假定した。然しながら彼れの學徒は斯くの如き變化や進化は極めて徐行的のものであることを主張したのである。ダーヰン學派に取つて生物進化に十分の時間は、一百萬年に相當するものであり、一の種屬から他の種屬が生ずるまでには、實に何十萬何百萬といふ長年月を要することになる。一切は進化する。商工階級の權力地位もいつかは滅亡の時が來るであらう。然しながら、それは一種屬から他種屬が生ずる場合と同じく、一朝一夕の沙汰ではないのであつた。

ダーヰン説はまた一方に生存競爭、適者存續を主張する。時代の勝者たり適者たることを以つて自任する新興權力階級に取つて、斯くまで都合良き合言葉が他にあらうか。斯樣にしてこの學説は、新興商工階級壯年期の代辯哲學たる任務を完全に果し得た。

然しながら、商工階級が漸くその老熟期に入ると共に、また一つの新階級が頭を擡げて來た。而もこの階級は、嘗つて商工階級が封建貴族に對して、急激なる革命を要したと同じ意味に於いて、商工階級に對し、一つの社會進化的大動搖を期待してゐる。

新興商工階級の革命熱は、嘗て生物學界にキユヴイーエの天地突變説を苦作せしめた。デ・フリーの變化説は正にそれと同じ意味に於いて、古き商工階級に對する新興勞働階級の要求の下に生れたものである。

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