第3篇 勞銀及び資本収入

第7章 資本制生産方法の終末

1.單純なる商品生産と資本制商品生産

我々がマルクスの手にたよつて試みた資本制生産行程の説明は、いよいよ終末に到着した。

原始的生産方法は計畫的に組織された社會的勞働に基くものであつて、生産機關竝びに生産物の社會的所有を條件とすることは、我々の既に見た所である。此生産方法の下に在つても、生産物は分配せられ斯くして個人的の所有物となることは事實であるが、然しそれは生産物が個々人の使用對象たる限りに於いてのみ言ひ得る所である。社會的勞働の直接の結果として見れば、生産物は先づ社會の有に歸するものである。

此生産方法は單純なる商品生産に依つて驅逐される。單純なる商品生産は相互獨立して作業する所の個人的勞働者に依つて營まれるもので、此等の勞働者はいづれも、自己所有の生産機關を以つて生産物を造り、而して生産物は言ふ迄もなく生産者自身の私有に歸するのである。

所が此單純なる商品生産から、資本制商品生産が發達して來る。即ち、相互獨立して生産する個別的勞働者に代り、大規模の集中したる勞働經營が出現するのであつて、此等の勞働經營は相互獨立して商品を生産するのであるが、其内部に於いては、いづれも計畫的の社會的生産に組織されてゐる。此等の資本制的大經營は商品生産者として相對立するものであるから、其相互の交易に於いては依然、商品交換が、隨つて又單純なる商品生産の所有權、換言すれば生産機關竝びに生産物の私有が行はれてゐるのである。

が、それと共に又、私有は其反對物に轉倒される。

單純なる商品生産の下に於いては、私有は勞働の結果であり果實であつた。勞働者は其生産機關竝びに生産物の所有者であつた。然るに勞働と所有との間に於ける關連は、資本制生産に依つて引き裂かれた。勞働者は最早、其生産物の所有者ではなくなつた。寧ろ生産機關竝びに生産物が、勞働者に非ざる人の所有に屬することゝなつた。生産が資本主義的基礎に立つ社會的生産に轉化された結果、非勞働者は益々一切の富の所有者となり、勞働者は非所有者に轉化される。

2.資本制生産方法の矛盾

然し、今日專ら行はれてゐる生産方法と占有方法との矛盾は、單に之れのみを以つて盡くるものではない。

原始共産制の下に於いては、生産が如何に單純且つ透明に形成され、社會が如何に其意志及び欲望に從つて生産を指導するか、それは我々の既に見た所である。

然るに、商品生産の制度の下に於いては、社會的生産條件が個々の生産者の頭上に聳え立つた權力となり、個々の生産者は唯々諾々として其命に服する所の奴隷となる。而して此新なる主君は個々の勞働者に其爲すべき事を指定することもなければ、又自己の欲望を告げ知らせることもなく、之れが推量を彼等に一任するのであるから、それだけ彼等の位置は益々哀れなものとなつて來る。生産は今や、生産者の意志から獨立し、且つ屡々それに反對して作用すること自然律の如き諸法則の下に置かれる。此等の法則は、價格の騰落などの如き變則状態の周期的出現を通して勵行されるものである。然し單純なる商品生産の支配下に於いては、此等の變速状態は(それが社會的原因に基く限り)微々たるものであつて、狹小なる範圍に制限されてゐる。畢竟、個別勞働者に依る分散的經營の微弱なる生産力に照應せるものである。

然るに、勞働の生産力は、資本制生産方法に依つて著しく増進せしめられる。蓋し資本制生産方法なるものは、科學に依つて征服せられた諸種の自然力を利用する所の、目的意識を以つて組織された社會的勞働に固有の凡ゆる生産力を解放して、之れを驚くべき程度に増進せしめるからである。其結果は、即ち次の如くである。――商品生産の法則を勵行せしめ、且つ從前に於いては單に暫行的の局部的不便(容易に忘れ去ることができ、又しばしば驅逐することもできた所の)を伴ふに過ぎなかつた變則状態の周期的出現は、今や數年間に亙つて持續し、全國全大陸を襲ひ且つ最も恐るべき荒廢を齎らす所の周期的大變災となつて現はれる。此變災は其範圍の上から見ても強度の上から見ても、資本制生産方法と共に生成せるものであつて、今や一の慢性疾患たらんとするものゝ如く見える。

尚いま一つ注意すべきことは、原始共産制の下に於いては、社會的勞働の生産物は社會の所有に屬し、社會は之れを社會的の欲望に從つて各個人に分配するのであるから、各人の受分は勞働の生産力が進むにつれて必然に増大した譯である。

商品生産の支配下に於いては、勞働の生産力が進むにつれて、一定量の價値に應當した使用價値の量は増大することになる。單純なる商品生産の下に於いては、勞働者の生産物は勞働者自身の所有に屬する事を常とする。勞働者は之れが全部又は一部を、みづから消費し得るのである。此場合には、勞働者の支配に屬する使用對象の量が、彼れの勞働の生産力と同一の率を以つて増大することは明かである。然し彼れは又、其勞働の生産物の全部又は一部を交換することも出來る。(尤も單純なる商品生産の下に於いて商品となるものは、生産物の一小部分に過ぎない)。

一般に勞働の生産力が大となればなるほど、彼れは交換上に提供した一定勞働の生産物に對して、ますます多くの使用價値を受ける。隨つて此場合にも亦、勞働生産力の増進は、減損されることなく其まゝ勞働者の利益となるのである。

資本制商品生産の下に於いては、勞働力それ自體が一つの商品であつて、その價値は他の凡ゆる商品の價値と同樣に、勞働生産力の増進と同一の程度を以つて低落するものである。隨つて勞働生産力が大となればなる程、勞働者が勞働力の價格を通して、之れが利益に與かる所は、相對的に益々小となる譯である。然るに資本制生産方法が支配的となるにつれて、賃銀勞働者より成る人民部分は益々大となり、隨つて人民中の益々大なる部分は、増進した勞働生産力の果實の分配から除斥されることになる。

此等すべての對立は、それ自體の中から自然的必然的に資本家階級と勞働者階級との衝突を生み出だすのであつて、勞働者は之れがため階級意識を目醒まされ、政治的行動に進み、斯くして凡ゆる資本主義國に勞働者の政黨が喚び起されることゝなるのである。然し以上の状態は又、單に勞働者階級にのみ限られてゐる如き苦痛のほかに尚、賃銀勞働者階級以外の益々擴大されつゝある社會の目にも、現在の事情を堪え難きものと見えしむる種々樣々の苦痛を造り出すのである。

3.矛盾の解決

要するに今や何もかも、資本制生産方法に體化されてゐる矛盾(勞働の社會的性質と、生産機關及び生産物に對する傳來的占有形態との間に於ける矛盾)の解決を迫つてゐる。

此矛盾を解決するには、二つの方法しかあり得ないやうに見える。それはいづれも、歸するところ生産方法と占有方法との一致を圖らんとする點に於いて共通してゐる。其一は、勞働の社會的性質を廢除して、單純なる商品生産の状態に還り、大規模の經營に代ふるに、手工業及び自營的の小農業を以つてせんとするものである。其二は、生産を占有方法に適合せしめんとするものでなく、反對に、占有方法を生産に適合せしめんとするものであつて、之れは生産機關及び生産物の社會的所有に達せしめる。

今日、多くの人々は、發達の進行をば上記第一の方法に從はしめんとしてゐる。彼等は法律上の規定によつて、生産方法を隨意に形作り得るといふ錯誤的の見地から出發してゐるのである。この傾向は(それが、尚未だ衰滅し切らない所にあつては)、資本の代辯者たるブルヂォア的俗學的經濟學によつて非難されてゐる。

然し俗學的經濟學それ自身も亦、類似の事をしてゐるのである。即ち此經濟學は今日專ら行はれてゐる生産方法が、今日專ら行はれてゐる占有方法と相一致してゐる樣に見せるため、近世生産方法特有の本質的性質を度外視して、恰もそれが單純なる商品生産であるかの如くに表現してゐる。試みに俗學的經濟學者の流行文獻を讀むならば、其處では今日尚野蠻時代と同樣にして商品が交換されてゐるかの如く説かれ、森や海を自由に支配してゐる狩獵漁夫が賃銀勞働者として、また弓矢やボートや漁網などが資本として、取扱はれてゐるのを見出すであらう(イ)。

註(イ)此等の先生達が鼓吹しようとしてゐる幻想は、植民地(即ち移民によつて拓植される所の處女地を有する植民地)に於いて打破されてしまふ。其處には勞働契約の完全なる自由があり、勞働者は自己の生産物、隨つて又自己の勞働の収益を所有し得るのであつて、經濟學者の呼んで資本制生産方法の事情なりとする所のものが普く見出される。たゞ不思議なことには、斯かる事情の下に立つとき、資本はもはや資本でなくなるといふ一事である。

此種の植民地には尚、自由の土地が潤澤であつて、その利用は何人にも開放されてゐる。如何なる勞働者も、其處では獨立して生産し得ることを常とする。彼れは勞働力の販賣を餘儀なくされる事が無い。されば何人も他人の爲ではなく、自分自身の爲に勞働することを望むやうになる。斯くして貨幣も、生活資料も、機械其他の生産機關もみな資本では無くなり、價値増殖を遂げないものとなるのである。

されば資本主義國に於いて所有の神聖と勞働契約の自由とを哀傷的に唱へてゐた同一の經濟學者も、一度び若き植民地に來ると、其處に資本を繁榮せしめ得る目的を以つて、勞働者を土地所有から排除すべきことや、國家の力に依り、又は先に來てゐた勞働者を犠牲として、新たなる移民の渡來を奬勵すべきことを要求するやうになる。換言すれば、勞働者を強制的に生産機關及び生活資料から分離せしめ、事實上自由ではなく、寧ろ自己勞働力の販賣を餘儀なくされる過剩の勞働者人口をば人爲的に造り出すことを要求するやうになるのである。而して此等の要求を從順に受け入れる勞働者(特に文化の後れた人種に屬する所の)が存在してゐる所にあつては、ありの儘の強制勞働なる奴隷制度が樹立される。

マルクスは言ふ。――『資本の阿諛者たる經濟學者をして、母國に在つては資本制生産方法を稱して理論上その反對物なりと言はしむる同一の利害關係が、植民地に在つては彼れをして「其ありの儘を白状し」此等兩生産方法の對立を高聲に宣明せしめる』と。

此種の經濟學者こそ、マルクスが『資本論』の中で根本的にやり込めた所のものである。然しマルクスの功績は、單に俗學的經濟學の平凡と虚僞とを曝露することだけに止まるものではなかつた。

世人は兎もすれば、マルクスを評してたゞ否定し、たゞ批判的に分析するだけで、積極的には頭を働かせ得ない人であると言ふ。然し彼れが我々に與へた資本の生産行程に關する説明の此略解に依つて見ても、彼れが事實に於いて一つの新たなる經濟學的竝びに歴史的體系を造り出したものである事が知られるであらう。先驅者に對する批判は、たゞ此新たなる體系の論據たるに過ぎないのである。

我々は、ヨリ高き立場に登つてをらないでは、古きものに打ち勝ち得るものでなく、又ヨリ高き認識を得てをらないでは、他を批判し得るものでない。又、如何なる科學體系と雖も、他のヨリ宏壯にして包括的なる體系を樹立することなくして、之れを破壞し得るものではないのである。

マルクスは商品の魔術的性質を曝露し、資本を一つの物としてゞはなく、寧ろ物に依つて媒介される關係として、又一つの歴史的範疇として認識した最初の學者であつた。彼れは資本の運動竝びに發達の法則を研究した最初の學者であつた。彼れは又、現在に於ける社會運動の目標をば何等かの『永遠の正義』の要求として勝手に自分の頭の中に組立てることをせず、今日に至る迄の歴史的發達に依る自然的必然的の結論として推論した最初の學者であつた。

我々がマルクスに依つて引き上げられた立場から認識する所のものは、單に現在の事情をば家父長制的に單純なる事情に捏造し去らんとする俗學的經濟學者たちの一切の企圖が、現在の事情をば斯くの如き單純なる事情に引き戻さうとする復古的企圖と同樣に無效であるといふ一事に止まるものでない。我々は更らに、社會の引き續く發達に殘されてゐる唯一の道程をも認識するのである。それは即ち占有形態を生産方法と一致せしめ、生産機關を社會の所有に屬せしめ、資本に依つて半ばしか遂行されなかつた個別的生産の社會的生産への轉化をば、更らに憚る所なく完全に遂行するといふ事である。これに依つて又、人類の爲に新たなる一時代が開かれることゝなる。

4.必然の國より自由の國へ

即ち無政府的なる商品生産に代つて、社會的生産の計劃的に意識された組織が現はれて來る。斯くして生産者に對する生産物の支配は終りを告げる。人類は絶えず益々自然力の支配者となつて來たのであるが、今や又社會的發達の支配者ともなるのである。エンゲルスは言ふ。――『其時以後、人類は始めて、充分の自覺を以つて自己の歴史を造ることになるであらう。其時以後、人類に依つて運轉される社會的の諸原因は、過半に亙り、且つ不斷に増進する所の程度を以つて、人類の欲する結果を齎らすことになるであらう。之れ即ち、人類が必然の國から自由の國に躍り込むことを意味するものである』と。

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