議會政治の正體と將來

高畠素之


議會政治といふものは、あつて惡し、なくても困るといつた位置のものとおもふ。政治の本質は支配にある。支配の目的からいへば、專制獨裁政治が一番望ましい。元來、支配といふものは、個人エゴイズム間の遠心的乖離作用を調節して、結合の現實を圓滑にしようとする一種の社會的求心機能である。支配の主體は少數なるほど能率を擧げ易い。國家以外の團體政治に於いてもさうであるが、國家の政治に於いては殊にさうである。

茲に若し一人の優秀なる英傑があつて、國家の結合維持に必要なる一切の支配機能を直接に擔任行使するといふことであれば、それが支配能率發揮の上から見て一番單純でもあり、且つ有効でもある。

けれども、さういふ英傑が居らなければ、それまでの話である。この場合には、英傑的祖先に對する國民の傳統的禮讚を以つて、支配者の現實的資格に代用せしめ得る。これだけやつて行ければ、それも甚だ結構である。

ところが、文明が進んで、國民のエゴイズムが深刻化し、個人意識が發達すると、それだけではなかなか一國の政治は行ひ得なくなる。何等かの形、何等かの程度で、支配上に國民の意志を採用又は酙酌せねばならなくなつて來る。政治の所謂デモクラシー化といふのがそれである。議會政治といふものは、かういふ政治デモクラシー化の一つの現れに外ならない。

けれども、政治の本質は支配にあつて、支配は少數支配なるほど能率を擧げ易いのであるから、多數支配の別稱の如く見られてゐる議會政治の樹立後に於いても、事實上には矢張り少數支配が行はれることを避けられない。議會政治の下に於ける國民意志の代表團體たる政黨の内部を見ると、其處には殆んど例外なしに幹部政治が行はれてゐる。幹部は少數であるから、幹部政治は少數政治と異ならない。そこで若し、議會政治は政黨政治でなければならないとするデモクラシーの定則に從ふとすれば、議會政治も亦實質上には少數政治だといふことになつてしまふ。

これは一例だが、この方面から見ても、議會政治は少數政治の否定又は對蹠を意味するものでなく、寧ろ少數政治の一變形に過ぎぬものであることが知られる。つまり、實質は少數政治だが、表面は多數政治であるかの如く見せかける。羊頭狗肉、言ひ換へれば、羊の皮を着た狼である。國民の自我意識が或る程度まで進むと、こんな手練手管も支配上の必要不可避な條件となつて來る。必然の惡だ。

議會政治、政黨政治は、斯くの如き羊頭狗肉の實を示す限りに於いてのみ存在の意義を有つ。若しこの實を示すことが出來ず、羊頭を掲げて羊肉を賣り、狼の實質を羊に轉化せしめようとするまでにデモクラシーが素朴放縱に陶醉されたとすれば、そのとき政治の本體は尻をまくる。表面の少數政治が擡頭して、議會政治を無殘に破壞する。

議會政治が末路に近づいたといふのは、放縱デモクラシーの蔓つた處にのみいひ得ることだ。節制あるデモクラシー國民は、デモクラシーの本分的限界を忘れないから、議會政治を葬むる必要をも感じない。デモクラシーをオートクラシーの假面として利用する國民のみが、議會政治を無難に維持し得るのである。

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