1 唯物史觀説の改造

高畠素之

用語のトンチンカン

カウツキーは其著『ベルンシュタインと社會民主主義綱領』の中で、ベルンシュタインの唯物史觀批評を攻撃し、彼れは徒らにマルクス及エンゲルスの用語を詮議立てするのみで、肝腎の歴史的事實については何等の考證をも與へて居らない。かゝるスコラスチックな態度を以つてしては、到底唯物史觀説の眞の評價をなし得るものではないと言つて、頻りに冷嘲漫罵を浴びせかけてゐる。

私は多くの點に於いてベルンシュタインの議論には承伏し兼ねるものであるが、此點だけは妙に彼れに同情する氣になつた。それは必らずしも、唯物史觀に對する彼れの批判の内容その者に共鳴した譯ではない。彼れの批判は他の多くの問題に於ける如く唯物史觀に於いても亦極めて曖昧であつて、掴み所がない。私がベルンシュタインに共鳴したのは、彼れの批判の内容ではなく、カウツキーが彼をスコラスチックと冷笑した、その用語穿鑿的の態度そのものである。

凡そマルクス説の中で、唯物史觀ほど其御祖師と御信徒との間に用語のトンチンカンした學説はない。斯樣な學説を批判するに當り、先づ用語の詮議立てをするは當然のことで、カウツキーほどの用語穿鑿家が(彼れは同じ書の中でベルンシュタインの有産者増殖論を批評し、有産者とは資本家のことなりや、中流階級のことなりや、將た又勞働者のことなりやと突込み、勞働者と雖も、上衣や襯衣や家具などを有し、間々小屋と馬鈴薯畑とを有するものさへあると皮肉つてゐる)、此點に限つて日頃の皮肉癖を超絶して、妙に大きく構へたのはどうしたものであらう。

生産技術と經濟的變化

それは扨て措き、唯物史觀説の謂ゆる『唯物』なる概念が先づ眉唾物だ。現代に於ける最優秀なるマルクス論者の一人ルイズ・ブヂーンは、其著『マルクス説の學説體系』の中で、マルクスの唯物史觀説は決して生産機關の技術的發達に於ける變化のみが、一切の歴史的事實を説明し得ると主張するものではないと力説して居る。

彼れは言ふ。

『生産機關の技術的發達に於ける變化(Changes in the technical developement of the means of production)は、人民の經濟事情の變化(Changes in economical condition of the people)を伴ふことを常とするものであるが、然し此二つは必らずしも相伴はなければならぬものではなく、互ひに別個の變化を爲し得るものである。從つて生産技術の發達は社會の物質的事情の變化に對する主要の原因ではあるが、必ずしも常にさうであるとは限らない。社會の物質的事情に影響を及ぼす他の原因もあり、又何等の影響をも及ぼさない生産技術上の變化もある。而してマルクス派の主張する所は、物質的事情の變化が歴史の第一動力(the prime mover of history)だと云ふのであつて、其變化の原因は敢て問はない。生産技術の發達は間接に歴史の進行に影響するもので、たゞそれが人類の生活する物質的事情に變化を起させる程度に準じて影響するに止まるのである』と。

然るにエンゲルスが其著『ヂューリング駁論』の中に述ぶる所に依ると、唯物史觀説は、生産及それに次いでは生産物の分配が、總ての社會制度の根底であると云ふ命題から出發する』と云ふことになつてゐて、生産機關の技術的發達と經濟事情との間に何等の區別をも立てず、單に生産の一語でお茶を濁してゐる。

更らに御本尊のマルクスは何と言つてゐるか。彼れは經濟的(又は物質的)事情に代へて、生産事情(Produktionsverhaeltnisse)なる言葉を用ゐ、生産事情と生産機關(Produktionsmittel)とを明かに區別してゐる。此點はブヂーンの主張と一致するが、然しブヂーンが『マルクス派は決してそんな事を云つてゐない』と言つた斷案を裏切つて、マルクスは明かに生産機關の技術的發達が生産事情を決定し、更らに生産事情が他の一切の生活上の過程を決定すると主張してゐる。ブヂーンに於いて『必然的に相伴ふものではない』筈のものが、マルクスに於いては、必然的に而も嚴密に相伴はなければならぬのみではなく、又歴史の『第一動力』なるものはブヂーンの主張する生産事情(又は物質的事情)ではなく、寧ろ生産機關の發達それ自身でなくてはならぬ。マルクスは其著『賃銀勞働と資本』の中で次の如く言つてゐる。

『生産機關の性質に從つて、生産者が相互に入る社會的事情も亦當然異つて來る。即ち生産者が其活動を交換し、生産上の總行爲に關與する條件も亦異つて來るのである。新たなる武器銃砲の發明と共に、軍隊の全内部組織は必然的に一變され、個々人が軍隊を組織し、軍隊として作用し得る事情、竝びに各軍隊相互の關係も亦それと共に變化したのである。

『斯くの如く、個々人が依つて生産する所の社會的事情、即ち社會的なる生産事情は、生産機關の、即ち生産力の變化發達と共に變化する。而して此生産事情の總和こそ、人の呼んで社會的關係即ち社會と稱するものを構成するのである。』

マルクスは茲では明かに、社會的關係の第一動力として、生産機關の技術的變化發達を強調してゐる。

生産力と生産關係

然るに、其後に公にされたマルクスの『經濟學批判』の序文に載つてゐる有名な唯物史觀要領記で見ると、マルクスは生産機關の代はりに生産力(Produktivkraefte)又は物質的生産力(materielle Produktivkraefte)なる言葉を用ゐ、此生産力が生産事情を決定することを暗示してゐるが、然し歴史の決定條件としては寧ろ生産事情の方をより多く強調してゐる。即ち左の通りである。

『人類は彼等の生活の社會的生産に於いて、一定の、必然的の、彼等の意志より獨立した事情に、即ち彼等の物質的生産力の一定の發達段階に相應した生産事情に入るものである。此等の生産事情の總和は社會の經濟的構造をなすものであつて、法律上竝びに政治上の上部構造が依つて立つところの、又一定の社會的意識形態が應當するところの現實的基礎である。物質的生活の生産方法こそ、社會的、政治的、及び精神的の生活過程一般を決定する。人類の意識が其生活を決定するのではなく、寧ろ反對に、人類の社會的存在が其意識を決定するのである。』前掲『賃銀勞働と資本』の一節の中で、マルクスは『生産機關の、即ち生産力の變化發達』と云つてゐる以上、『生産機關』に代へて『生産力』なる言葉を用ゐるやうになつたことに不都合はないやうなものゝ、先きに屡々繰り返へされた生産機關と云ふ言葉は茲には一言も出て來ず、加ふるに生産機關の代用なる生産力に依つて決定さるべき『生産事情』(又は生産方法)の方が、歴史の決定原因として重きを置かれるやうになつて來た。

之れは單に便宜上の用語變更とのみは考へられない。私は此間に幾分のゴマカシが潛んでゐるのではないかと考へる。元來『生産機關即ち生産力』と解したことが、マルクスとしては極めて不用意な言ひ現しであつて、生産機關の發達と生産力の發達とは、全く別個のものではないが、さりとて又全く同一の内容を示すものでもない。生産機關の發達は、生産力の發達の唯一の原因ではないのである。

マルクスは此事を明かに感づくやうになつた。そこで彼れは、生産機關の變化發達が社會的生産事情の決定原因であるといふ言ひ現しの不合理を覺り、生産機關に代へて生産力を持ち出したのではなからうか。後に公にされた『資本論』第一卷で見ると、マルクスは明かに生産力が『種々樣々の條件』に依つて決定されることを認め、これらの條件の主なるものとして、『勞働者の熟練の平均程度、科學及び其工藝的應用の發達、生産工程の社會的結合、生産機關の範圍及能率、及び種々なる自然關係』等を數へてゐる。即ち生産機關の發達程度は生産力の決定條件中の一つを成すに過ぎない。隨つて生産力の發達程度が歴史の進行を決定すると云ふ時には、單に生産機關のみではなく、少なくとも茲に擧げた數個の條件を計算に入れなくてはならないことになる。

然るに生産力の決定條件たる此等數個の要素の中には、既に生産力に依つて決定せらるべき筈の社會的生産事情の一部を成すものがある。例へば『生産工程の社會的結合』(分業、協業等の如き)の如きが即ちそれである。かうなると、鷄が先きか卵が先きか分らなくなつて來る。そこでマルクスは、一面生産力が生産關係を決定すると見ながら、他方に社會的進化の決定條件としては、生産力を通り越して寧ろ生産事情の方に重きを置くやうな言ひ現はしをするやうになり、更らにエンゲルスになると、生産事情の外に交換及び分配の二項目を追加し、生産の中に生殖まで引ツ括めるやうになつたのである。

かう考へて見ると、ブヂーンが『生産技術の發達は社會の物質的事情の變化に對する主要の原因ではあるけれども、常に必ずさうであるとは限らない。社會の物質的事情に影響を及ぼす他の原因もあり、又何等の影響をも及ぼさない生産技術上の變化もある』と言つたことも、成るほど成るほどと點頭かれる。たゞ彼れは不幸にして、マルクスに對する批判的態度を缺いてゐた爲に、此見地を以つて直ちにマルクス自身の見地と一致するものと早合點したのである。

改造の第一點

以上説く所に依つて、マルクスの唯物史觀説なるものは頗る混亂錯綜した命題であることが分る。餘程の無批判的な御信心家でなくては、これを其まゝ受け入れることは出來ない筈である。

斯く言へばとて、私しは決して唯物史觀説を輕蔑するものではない。唯物史觀説は玉石混淆である。經濟又は衣食住が一切の社會生活の基礎だなどと云ふ雜駁な見地から如何に此學説の應用を試みたからとて、學説の完成その者には何程の效果もない。應用は末である。原理その者の淨化確立が本でなくてはならない。

私は唯物史觀説改造の一案として、試みにこんな事を考へた。唯物史觀説は先づ『經濟』、『經濟事情』、『物質的條件』、『生産事情』、『生産方法』、『社會的生活』などの混亂した用語を一掃して、『生産力』の變化發達を歴史の『第一動力』としなければならぬ。動力は原因の意にあらず、原因は單一ではなく多數である。勞働の熟練程度も、科學や工藝の發達も、道徳も、分業も、協業も、生産機關も、地理も、氣候も、人種的特徴も、皆な伏能的に社會進化の決定原因と見ることが出來る。

然し此等の原因は、常に必らず社會進化を決定するものとは限らない。此等のものが現實に於いて社會進化を決定するには、先づ生産力を動かさなくてはならない。即ち以上掲ぐる如き多數の伏能的原因は、それが生産力に變化を與へた時に、始めて歴史的變化の現實的原因となるのである。隨つて生産力その者は原因でなく、他の伏能的諸原因を現實的原因たらしむる唯一の制限的條件である。此言ひ現はしは恰も、勞働は商品價値の唯一の原因であつて、使用價値は商品價値の缺くべからざる條件に過ぎないといふが如くである。

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