9 資本主義と營利

高畠素之

資本主義の惡い點

資本主義といふと惡の塊りででもあるかの如く考へてゐる人もあるやうだが、資本主義にも却々いい所がある。勿論惡いところは澤山ある。資本主義の一番惡い點は、社會を生産機關の獨占者たる資産階級と、自己の勞働力以外には何等の生産要素をも所有せざる多數無資産者の階級とに二分する事である。自己の勞働力以外には何等の生産要素をも所有せざる人々は、この勞働力を賣らないでは生活することが出來ない。そしてそれを買ふ者は、即ち生産機關を所有するところの人々である。彼等はそれを購買し生産的に消費することに依つて、餘剩價値を収得する。茲に始めて、生産機關は資本となり、生産機關の所有者は資本家となるのである。かやうな階級對立の事實なくしては、資本主義は存立し得るものでない。また資本主義の發達は、この階級對立の状勢を助長することになるのである。

これは資本主義の一番惡い點である。第一にそれは、人道の立場に背反するものと言はれるだらう。第二にそれは、國家の立場からも許し難いところであらう。第三にそれは、資本主義自身の立場から言つても獅子身中の蟲である。なぜならば此事實は資本主義存立の第一義的條件ではあるが、同時に又資本主義自滅の必然的原因ともなり得るからである。資本主義は其必然の結果たる産業集中の傾向に依つて、無資産勞働者の結合的反抗を助長する。マルクスの言葉を借りて言へば、資本主義の發達すると共に『資本制生産自體の機構に依つて訓練、統合、組織さるゝ絶えず増員しつゝある勞働者階級の反抗が増進する。』かくして『生産機關の集中と勞働者の社會化とは其資本制的外殻と一致し難き點に到達』し、『資本制的外殻は破裂する』に至るのである。この資本主義自滅の斷末魔は、勞働力商品化の事實、換言すれば無資産階級存在の事實が續く限り到底避けられないのである。然るに資本主義なるものは、此事實の基礎上にのみ成立し得る。此意味に於いて、資本主義は抜きさしならぬヂレンマに陷つてゐるものと云はねばならぬ。

資本主義には斯樣な致命的缺陷が含まれてゐるに拘らず、一方には又なかなか捨て難い妙所もある。少なくとも、來たるべき新社會の編成にとつて參考となるべき要素は尠なからず含まれてゐるのである。今、その最も顯著なる一例として營利の原則を擧げることが出來る。

自由と統制の調節

資本主義は營利の原則に從つて運用されてゐる。營利とは讀んで字の如く、利益の追求である。嚴密に言へば、貨幣利益を直接の目的として追求することである。資本主義は此營利の欲求を以つて、凡ゆる經濟行爲の起動動機たらしめんとするものである。

此傾向には勿論缺點も伴ふ。貨幣利益の追求が單なる經濟行爲の領域を超えて、人間行爲の全領域に侵入するとき、人間生活の一切は貨幣價値に依つて秤量され、義理も、人情も、道徳も、節操も、すべてが商品化するといふ殺風景な結果を招來することになる。これは寒心すべき傾向であらう。それにも拘らず、私は此營利の原則をば、社會制度としての資本主義に含まるゝ最大の強味と見るのである。

そもそも經濟制度の運用に於いて最も困難なることは、個々人の自由と全制度の秩序又は統制とを如何に調節すべきかといふ問題である。自由の伸張といふ立場から言へば、社會は全然無秩序、無統制なるに越したことはない。また秩序統制の立場から言へば、個々人の自由は絶對に之れを抑制するに如くものはないのである。而して個々人の自由を抑制すべき最も直接にして且つ最も有效なる手段は、國家の權力を無制限に擴大することである。封建制度(及び其後に生じた謂ゆる警察的國家制度)は、此意味に於いて最も鞏固に統制された社會制度であつたといふことが出來る。けれども其統制は、個々人の自由を犠牲とすることに依つてのみ購はれたものである。自由の窒息されたところに發展の餘地はない。自由の窒息は、創意の發動を抑制することになるからである。發明や冒險の絶滅を意味することになるからである。かくして封建制度や謂ゆる警察的國家の制度は、極端なる權力的統制のために發展の進路を塞がれて、結局化石状態に陷つてしまつた。

自由放任主義の下における統制

そこへ資本主義が出現して自由を強調した。競爭の自由!營業の自由!企業の自由!投資の自由!勞働の自由!資本主義は實に極端なる自由放任をモットーとして、封建的壓制に對抗したものである。けれども極端なる權力的統制が、社會的活動を緊束して進歩と發展との餘地を奪ふ如く、極端なる自由放任主義は又、混亂と無秩序とを誘致して社會的壞頽の末路を準備する虞れがある。

然るに資本主義は、一方に此自由放任を強調しつゝ、他方に其必然の結果たるべき混亂無秩序を制止すべき妙諦を藏してゐる。自由放任の必然的惡結果を制止する爲に國家的權力を用ゐるといふならば、それは同時に又、自由その者の窒息を意味することになる。而して自由の窒息は又同時に、自由の齎らす良結果の抑絶をも伴ふことになるのである。資本主義は自由の手綱を極度に弛めた。而も其必然の惡結果を避くるため國家權力に頼よることを要しなかつた。營利の原則は自由を抱擁しつゝ、同時に又國家權力の役目をも盡すからである。

一例を擧げよう。國家的統制を前提せざる自由主義經濟制度のもとに於ては、需要多き貨物の生産乏しくして、需要少き貨物のみ徒らに多く生産されるといふ混亂を來たす虞れなきか。資本主義のもとに於いては、かゝる結果は生じないのである。貨物の供給が需要を超過すれば、價格は必然に下落して、他の事情に變化なき限り、利潤は低減することになる。而して資本主義のもとに於ける一切の産業は、營利の原則に依つて運用されるものであり、加ふるに資本主義は投資の自由を認めるものであるから、利潤の低下した産業に於ける資本の一部は、反對の理由に依つて利潤の増進した他の産業に流動してゆく。かやうにして需要供給の均衡は保たれ、經濟生活上の混亂は防止されることになるのである。

更らに一例を擧げよう。自由放任主義經濟制度のもとに於いては、生産し易き貨物のみ多く造られて、生産困難なる貨物の拂底を來たす虞れなきか。營利の原則は斯くの如き結果を阻止するのである。價格及利潤の調節作用は、上述の場合と同一の均衡結果を齎らし得るからである。要するに營利の原則なるものは、自由放任主義と同根一族であつて、而も其反對素因たる國家權力の作用をも兼てゐるのである。

欲望としての營利

以上は制度運用上の方面について言つたのであるが、營利主義は更らに一個の衝動又は欲望としても作用し得る。營利を一個の欲望として見るとき、其處に極めて微妙なる社會的作用が看取されるのである。

そもそも營利上の欲望は、單なる物質的欲望(經濟上の欲望)であるか、乃至は又獲得せる物質的利益を他に誇示せんとする優勝の欲望であるか。營利が若し單なる物質的欲望にのみ基くものとすれば、有限なるべき物質慾の爲に無限の物質的利益を獲得する必要はない。他を凌駕することを條件とする優勝の心理に出づればこそ、營利の願望は無限に進むことゝなるのである。此意味に於いて、營利上の欲望は即ち優勝の欲望であると言ひ得る。

けれども、優勝の欲望が營利の欲望たる爲には、物質的利益の獲得といふ必然の條件を豫想しなければならぬ。優勝の欲望はそれ自體として營利欲望たるものではない。物質的利益の獲得を通じて社會的威力を誇示せんとする場合に、始めて營利欲望が成立するのである。然るに此物質的利益の獲得といふことは、必然に又物質的欲望の充足の可能をも含むものであつて、營利欲望の發動するところには必ず此物質的欲望の充足に對する意識的又は無意識的の期待が前提されるのである。此意味に於いて、營利上の欲望は物質的欲望を必然の條件又は道程とする優勝欲望であると言ひ得る。要するにそれは、優勝慾には相違ないが、特殊の條件に依つて拘束された優勝慾である。而して資本主義制度のもとに於いて、この特殊優勝慾たる營利欲望の支配を最も直接に受くる者が資本家階級であることは論を俟たないが、この欲望は更らに資本家階級以外の人心をも支配して、遂には直接又は間接、資本主義制度のもとに立つ一切の人心が此欲望の支配から脱し得ないやうになる。實に資本主義制度のもとに於いては、經濟上の欲望も優勝の欲望も各獨立した欲望としては作用することなく、たゞ此營利欲望といふ特殊の欲望としてのみ作用し得る如き状態に達するのである。

營利欲望の作用效果

この營利欲望なるものは、社會進歩の推進力として一種特別の作用を發揮するものである。資本主義制度の支配下に於いては、科學の進歩も機械の發明も、多くは、此營利慾の刺戟に依るものと見て差支ないのであるが、營利慾の存在せざる社會に於いては他の欲望が代つて社會進歩の推進動力とならねばならぬ。この場合、物質的欲望には多くを期待し得ない。單なる衣食住の爲といふ動機は、持久的又は反覆的な努力の源泉とはなり得るであらうが、社會進歩の積極的要因たるべき人間の創造能力は、寧ろ是れに依つて減殺される場合が多いのである。

然らば優勝の欲望はどうかといふに、此欲望は確かに創造能力の發動源泉となり得る。單なる興味の衝動が種々なる發明や創意の動機となる場合もあるが、優勝の欲望に依つて新たなる計畫が立てたれ、新たなる事業が起され、新たなる發明創意が與へられるといふ場合も決して少なくはないのである。けれども單なる優勝の欲望は創意の源泉としては有力であるとは云へ、持久的努力の源泉としては極めて微力のものである。持久的努力を生ぜしめる點に於いては、むしろ經濟上の欲望の方が遙かに有力であると言ひ得る。

例へば、私が或著述に從事してゐるとする。この場合、私の心には少なくとも二つの欲望が働いてゐる。一つは即ち、内容の上にも規模の上にも立派な大著述を造り上げて、學界を壓倒し世人の注意を集めたいといふ願望。これは優勝慾の領域に屬するものである。他は是れに依つて生活上の収入を得ようといふ願望。これは即ち經濟上の欲望である。私の著述の實質に對する苦心計畫は主として右の優勝慾に依つて動機づけられる。けれども斯樣な苦心計畫を著述に造り上げるには、長日月の努力を要する。此努力を事實に於いて持久せしめる力は、優勝の欲望に在る場合よりも、寧ろさうしなければ食へないと云ふ強制の意識、さうすることに依つて生活上の収入を得ようといふ經濟上の欲望に在る場合の方が多いのである。

ところで營利上の欲望は、この兩欲望の作用能力を巧みに選擇し合成したものである。曩に述べた如く、營利慾なるものは經濟上の欲望の充足に對する期待を含む優勝慾であつて、經濟上の欲望の作用と優勝慾の作用とを綜合し一體となして、各單獨に作用する場合よりも高き能率を發揮せしめるものである。而して此營利上の欲望は、資本主義制度の下にのみ、獨立せる普遍的の特殊欲望として確立される。隨つて資本主義制度の廢止されるとき、この欲望も亦おのづから解體し去るものと見るの外はない。

將來の危惧

社會主義の制度は資本主義の否定に依つて立つ。社會主義制度のもとに於いては、資本主義を構成する一切の特徴的要素が廢絶される。隨つて營利の原則、營利の欲望も亦當然に消滅することゝなるのである。かくの如き社會主義制度のもとに於いて、自由と統制との兩要素は如何にして調節されるであらうか。また營利欲望に依る合體を分解された經濟上の欲望と優勝の欲望とは如何にして其作用能力を調節される事になるであらうか。これ實に、社會主義實現の第一歩に逢著すべき現實的の活問題であつて、制度理想上における集權的傾向(國家社會主義)と分權的傾向(無政府主義)との抗爭、生産上における統一主義と聯立主義、分配上における差別主義と平等主義との對峙は、畢竟みな此問題の解決に對する苦悶の現はれと見ることが出來る。

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