6 無産愛國黨の基調

高畠素之

無産愛國黨の必要

日本には隨分澤山の政黨がある。新米の無産政黨だけでも三つも四つもあり、舊來の既成政黨も政友、民政の二大黨のほかにいろいろの小つぽけな政黨が介在してゐる。此上にまた、新しい政黨が出來るのもうるさい話であり、又出來る餘地もなささうに思はれるが、茲に一つ、何うしても生るべくして生れず、さりとて又、生れざる儘に放任することも出來ないといふ退つ引ならぬ必要を痛感するのは、無産愛國黨である。

名前は何でも宜しい。愛國大衆黨といつても、或は國民社會黨といつても、急進愛國黨でも何でも好いが、兎に角無産愛國を標榜した一個の政黨が成立すべきであると思ふ。現在の無産政黨はいづれも超國家非國民的なるが故に排撃しなければならぬことは云ふ迄もないが、此等の無産政黨に對して既成政黨はどうかといふに、これも一つとして感服すべきものはない。

現存政黨は皆いけない

無産政黨側では、既成政黨を稱してブルヂォア政黨と呼び、その意味に於てこれが排撃を企てゝゐる。なるほどブルヂォア政黨に違ない。けれども私が今の既成政黨を非とする所以は、必ずしもそれがブルヂォア政黨だからではない。ブルヂォア的のプロレタリア的のといつたところで、それは政黨の經營者自身がブルかプロかといふことである。經營は假令ブルヂォア的に爲されてゐるにしても、政黨の最も急所とする處は選擧である。選擧の相手は一般選擧民である。で、普通選擧となれば、選擧民の大多數は中産階級以下で、一般のプロレタリアと稱する階級を含んでゐる。そこで、選擧を重んずる以上、自然、これ等の顧客たる選擧民の氣に入るやうな、政策を掲揚する必要がある。政黨それ自身の經營はブルヂォアに依つて爲されてゐても、選擧に勝つにはこれ等の中産以下一般プロレタリアを釣らなければならぬ。そこで、既成政黨と雖も掲ぐる政策は自然に急進的となり、プロレタリア的となつて來る。それは恰も、中流以下の階級を顧客とする各種産業が所謂大衆的になつて、其營業方針、客の扱ひぶり等、すべて封建的貴族的臭味を斥ぞけ、下層階級を尊重するのと同樣である。淺草あたりの飲食店、興行等がいかに大衆的なるかを見よ。彼等の營業ぶりは如何にも平民的、民衆的、プロレタリア的である。さればといつて、經營者はプロレタリアでなく、大きな營業は何れもブルヂォア的資本家によつて爲されてゐる。

政黨もそれと同樣である。政友會や民政黨がブルヂォアの經營だからといつて、その政策標榜までがブルヂォア的だと見るのは滑稽淺薄な唯物史觀である。政友會も民政黨も、普選による選擧を眼目とするかぎり、いづれも民衆的プロレタリア的の政策を重んぜざるを得ない。現に今日の標準から云つても、各種の無産政黨から既成政黨を引括めて其政策を對照して見るに、國體に關する點はともかく、國民生活上の諸政策に於いては、大した本質的差違もない。民政黨の政策と社民黨の政策とを對照して、一體どこにブルヂォア的とプロレタリア的との差異があるか。斯ういふ次第だから、私は、既成政黨がブルヂォア的だといふ意味で、これを排斥しようとは思はぬ。私が既成政黨に非點を認むる理由の主なるものは、現存無産政黨を非とする理由と結局同一である。即ち國家國體主義の立場から非難するのである。

眞の愛國者は無産階級にあり

既成政黨は無産政黨と異なり、何れも皇室に對する忠誠を標榜してゐることは事實である。然し、實際の行動が果してその標榜と完全に一致してゐるか何うか疑問である。此點に於いては、彼等の態度はかなり不眞面目である。ふざけ切つてゐる。その害毒の及ぶところは、結局に於いて無産政黨と選ぶところがない。例へば政友會の如きは最も熱心に皇室中心主義を振かざしてゐるが、實際にはそれが單なる方便なのか、眞劍な動機から出てゐるのか疑問とすべき點が多い。場合によつては議會中心主義に對して皇室中心主義を強調するかと思へば、自己が政權を握るに都合のよいときには憲政常道論を力説して實質上議會中心主義と同樣の理窟をコネる。さうかと思ふと又、例の不戰條約の『人民の名に於いて』の問題の如き、皇室中心主義の政治の立場からすれば極めて重大な問題であるにも拘らず、方便的にこれを看過して知らぬ顏をしてゐる。何うしても不眞面目と評するのほかはない。

斯ういふ風で、國家國體の問題からいつて、現在の政黨は何れも頼りにならぬ。無産政黨に限らず皆だめだ。社會的に高い地位を占めてゐる階級は、その爵位、勳等、知識、財産等に兎角囚はれ勝で、赤裸々になつて皇室を敬ひ國體の尊嚴の前に拜跪する氣持になれない。で、眞の愛國者は、無産者の間に求めるのほかはないのである。彼等は誇るべき地位も學問も財産もないかはりに、それだけ愛國的の精神は純粹無垢である。裸一貫の、赤裸々な氣持になつて皇室を敬ひ國體の尊嚴に恭順してゐる。我が日本の眞の意味の愛國要素は、何うしても之等のプロレタリア階級に求めなければならないのである。

これが、私の無産愛國黨の必要を信ずる理由であるが、無産愛國黨といふからには、それに適當した綱領政策を掲げなければならない。その綱領政策は如何なる觀點を基調とすべきか。それについて極めて大體の私見を述べて見たい。

無産愛國黨の綱領

第一條に於いては、國家國體に對する絶對的恭順を示すこと。

第二條に於いては、國家國體に對する犯罪の取締法規を極度に峻嚴化すること。

第三條に於いては、我國に於ける中流以下の階級は農民が多數なのであるから、農民の生活安定を目的として、そのための現實的諸政策(例へば耕作者の土地所有、肥料の國家府縣的配給、低利資金の融通等の如き)を定める。

第四條に於いては、工場勞働者の生活安定に對する諸政策を定める

第五條に於いては、徴兵に伴ふ失業脅威に對する防止策を講ずる。

第六條に於いては、物價の公定策を圖る。(今日に於いては、如何に勞働條件を改善しても、それらの改善に伴ふ企業主の負擔は、間接に物價引上げによつて埋合はされる故に、結局、一般無産者の生活實質にとり大して有利でないことになるから、物價の決定は自由競爭經濟の市場的決定に一任せず、國家自らが價格標準を示すといふことにすべきである。同時に米穀の如きは、今日の生産力から云へば、價格と價値との均衡が一向とれてゐない。この點に就いても、國家が中間に介在して十分の調節を圖るべきである。或は米穀官營も一策であらう。)

第七條に軍備の充實である。充實とは必ずしも擴張を意味しない。軍備に關しても無駄な費用は出來る限り除かねばならない。その意味に於いて(費用の縮小といふ意味に於いて)、軍備縮小となるなら、それも不可でない。だがこれは、縮小の爲めの縮小でなく充實の爲めの縮小でなければならぬ。

最後に外交方面に於いては、對支政策が重心を占めるのは今日の場合避けられない。それに就いて、日支親善を急務とするはいふ迄もないことである。が、さればといつて今日の無産政黨の如く、何でもかでも支那の觀點から評價を下すといふ國賊的行方は勿論排斥しなければならぬ。この點、民政黨の如きも、すべての缺點を日本側になすりつける樣な口吻を弄してゐるが之は大に愼むべきであると思ふ。例へば濟南事件の責任は田中内閣にありと呼號する如きは、無條件的に賣國的である。支那がやたらに難クセをつけてヂラスのも、要するに日本の對支國論が統一してゐないと見縊られてゐるからであると思ふ。で、無産愛國黨の立場としては、大體、次の樣な行き方が好いと思ふ。即ち對支外交を非帝國主義的に合理化してアジアに對する歐米帝國主義の脅威に具へ、日支の共存を確保する。先づ此邊が我々の目標たるべきであらう。

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