9 資本主義否定と共産主義及社會主義

高畠素之

共産主義との對立點

私は國家主義、國體主義の立場に於いては極度の保守主義をとるものであるが、社會、經濟の方面に關しては、現在の資本主義的私有制度の當然の歸結を見越して、可成り急進的な見解を抱いてゐる。これに對して、いはゆる日本主義者の間には、頻りに私の立場を攻撃して、資本私有制度を否定する彼れは、たとひ國家國體を口に唱へても矢張り共産主義者であると稱してゐる。然し、資本主義的私有制度を否定する者は社會主義者とは言ひ得るだらうが、必らずしも共産主義者とはいへぬ。共産主義といふ言葉も、歴史的に色々な内容變化があり、一概にはいへぬが、今日一般に行はれてゐる共産主義、即ち第三インターナショナル一派のそれを現在的意味に於ける共産主義とすれば、これに對しては、諸種の對立的な社會主義があり得る。中でも、私の立場は最も鋭き對立をなす。今その對立點を明かにしよう。

第一、共産主義は國家の終局的消滅を期待する。尤も、その消滅以前に於いて、プロレタリア國家なる無産者獨裁國家が、過度的段階として存在すべきことを主張してはゐる。主張するどころか、私から見れば、この無産者獨裁なるものが、共産主義の本體なのであつて、國家消滅は一つの旗印、かけ聲にすぎない。然し、いづれにしても國家の否定を明白に標榜してゐるのである。然るに私の見解は、資本主義的私有制度は、本質に於いて、國家、殊に日本の如き國體の基礎上に立つ國家と一致せぬといふ所から出發する。その不一致から色々な不都合が生じて來る。資本主義の發達につれて、この不一致から生ずる不都合は段々目立つて來る。若しこの儘放任すれば、資本主義のために國體は次第に侵蝕される。そこで國家國體に適合した經濟制度を確立せねばならないのであるが、その經濟制度は當然私的營利の立場に立つ制度の否定に出發せねばならぬ。つまり、國家主義を政治上から更に産業上にまで徹底せしめんとするのである。

ところが、實は資本主義そのものゝ運命が、次第に、右の方向に進みつゝある。即ち個人的資本主義から國家的資本主義に進展しつゝある。これは單なる空想的願望ではなくして、現に行はれてゐる經濟的發展の必然的歸結なのである。これは私の主張の客觀的根據であり、そして前に述べたところは主觀的根據である。斯くの如き主觀客觀兩面の鞏固な根據の上に、私の主張は立脚する。兎に角、國家の否定と反對に、國家肯定の發展が、私をして資本主義の否定、社會主義の肯定に赴かしめるのである。この點、共産主義とは全て反對である。

第二に共産主義は階級鬪爭の事實を認識するのみならず、これが助長を重要な使命としてゐる。私も亦現在の資本的私有制度の下に於いて階級鬪爭の生ずべき必然性を認める。そしてこの階級鬪爭が熾烈に赴くほど國家國體の存立に脅威を與ふるものなることを認める。私が資本的私有制度を否定する最も重要な理由はそこにある。この事實があるから、それを發生せしめる資本的私有制度を抜本塞源的に廢除せよと主張するのである。この階級鬪爭の事實を歡迎し助長せんとするのでなく、寧ろこの事實を惡むが故に、この事實の發生の餘地なからしめるやう、國家國體主義を擴充發展せよと主張するのである。この點も極めて鋭く共産主義と對立してゐる。

惡平等主義の排撃

私の考へが、共産主義と對立する第三の要點は、共産主義は平等主義であるが、私の主義は必らずしもさうでないといふところにある。尤も、この平等といふ言葉の内容にも、歴史的に色々の差異がある。最もひどい平等主義は、かのフランス空想的社會主義者の一部に見られるが、カベーの如きは、國民の消費生活全部を何から何まで平等ならしめようとし、衣服も住宅も食物も男女の區別以外は皆な一樣のものを宛てがはるべきだとした。然し今日ではこんな馬鹿げた平等を唱へるものはない。共産主義とのみいはず、一般マルクス主義の唱へる平等は、収入の平等である。つまり能力手腕の如何、勤勉努力の如何を問はず、何人にも均等の収入を與へやうといふのであつて、その収入を如何に消費するか、青い着物を着るか、白いシヤツを着るかは當人の勝手だとする。然し私はこの収入の平等といふことにも反對である。私は、如何なる人間も性根の奧底に大なり小なりの横着性をもち、これが社會秩序破壞の大なる毒素となることを認める。そして、この横着性の發露を制禦して行くには収入の差等による外はないと考へる。勤勉、責任、才能の如何等に應じて、報酬に差等をつけるのは、社會的正義の要求に一致するものと信ずる。この點に於いて、私は不平等論者である。

然し、人は何人も出發點に於いて平等でなければならぬ。生れ落ちた時は何人も白紙状態にあらねばならぬ。この白紙状態から、即ち平等の出發點から、各人はそれぞれ努力と才能とに應じて世に出づべきである。つまり個性發展の機會均等である。この機會均等を破壞するものは、遺産相續制度であるから、これを禁止しなければならない。この意味の平等主義は、かのロドベルトス以來諸種の國家社會主義思想に共通するところであつて、私もこれに贊成である。隨つて、前述の如き共産主義の惡平等には絶對反對である。

國家社會主義實現の原動力

最後に、私は自己の主張の實現上その原動力となるべきものは、國民全般即ち諸種の階級、諸種の社會群を無差別的に網羅した意味での國民ではなくして、最も純眞基本的な國民層、即ち現在に於いて社會の下積みとなつてゐる下層社會、無産者、即ち熊公八公の徒であると信ずる。この點が、一般の日本主義者たちから煙たがられる理由であるかも知れない。だが、これに就いては、私にも相當の理由がある。現社會に於て高き地位にある者は、とかくその地位、名分、知識、財産等に捉はれ易い點があり、赤裸々に卒直に國家國體に沒入し得ぬ傾きがある。下積階級にはさういふ弊所がない。彼等は裸一貫で、不純な執着を持たず、純粹な心情に於いて皇室を敬ひ國體を尊び、他から教へられずしてその尊嚴の前に拜跪する。素朴な、ありのまゝの氣分に於いて、彼等は尊王家であり國家主義者である。新時代轉換の樞軸は、これらの人々の間に存すと信ずる理由は茲にある。かの赤穗義士の如きは、大石は城代家老で別物だが、その他はいづれも小身者が多かつた。百石以下の者が多數を占め、甚だしきは寺坂の如き足輕や五人扶持十人扶持の輕輩が忠義團の急先鋒となつてゐる。これは、前述の如き心理傾向の必然性に基づくものであると思ふ。

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