5 國家論としてのマルクス主義と國家社會主義

高畠素之

兩主義の分岐點

國家論を中心としての國家社會主義とマルクス主義(共産主義)との分岐點は、要するに國家の本質を統制機能それ自身の中に求めるか、それとも搾取の要具として生じた統制の中に求めるかといふ事である。

統制機能は社會それ自身に伴ふものであつて、此機能の分化自立せる地域結合體が、即ち國家の本質であるとするのは、國家社會主義の見方である。

反對に、先づ搾取の事實を假定して、搾取の在る所には必ず支配があり、國家は此支配の地域結合體であつて、搾取階級の爲に被搾取階級を其被搾取者たる位置に抑置せんが爲に生じたものとするのは、マルクス主義の見方である。

隨つてマルクス主義の立場からすれば、搾取事實の消滅したときには、國家も亦必然に自滅することとなる。

勿論、國家社會主義と雖も、搾取事實の出現以後に於いては、國家が搾取階級の利用する所となることを否認するものではない。然しそれは國家の本質が搾取にあるからではなく、搾取以前に發生した國家本質を時の優勝者たる搾取階級が自己の爲に利用するといふに過ぎない。搾取階級が消滅するとき、國家は其利用團體から離れて、本來の統制機能その者に復歸することとなるであらう。

應用上の差異

以上の兩見地は、理論上には可なり接近した結論に落ちつくものの如く見える。然し實際の應用に於いては、さうではない。例へば今の社會は資本主義に立脚してゐる。そこでマルクス主義から見れば、今の社會に於ける國家は即ち資本主義の一端であつて、資本主義の撤廢といふ概念の中には、かかる『資本主義國家』なる國家の撤廢をも含むことになる。更らに當面の例について言へば、日本の資本主義を否定することは、現實に於ける日本國家をも否定することになるのである。

我々も亦、現存の日本國家(ヨリ具體的に言へば、日本の國家權力)が資本主義の爲に利用されてゐる事實を拒むものではない。我々は資本主義を敵視すると同時に、此利用關係をも敵視する。然しながら、それは現實の日本國家に對する敵視又は否定を意味するものではない。寧ろ日本國家を資本主義の毒牙から救出せんとするのである。

マルクス主義の不徹底

マルクス主義の『資本主義國家』とは、資本主義の一端として當然資本主義の中に含まるべき國家の意味である。隨つてマルクス主義から言へば、資本主義の否定は必然に『資本主義國家』なる現存國家の否定をも意味することになる。我々は資本主義を否定し、隨つて資本主義が國家を利用する關係をも否定するが、國家その者は極力これを肯定し擁護するものである。要するに國家否定の實際的結論に於いては、マルクス主義も無政府主義も五十歩百歩であつて、共に非國家的ユトーピアなる特殊範圍に一括し去るべきものとしてしまふのである。

マルクス主義は、國家社會主義への降服に依つて其現實主義的傾向を完成せしめられるか、又は無政府主義への陷沒に依つて其感情的空幻の傾向を徹底せしめられるかのヂレンマ的位置に立つてゐる。マルクス主義の『プロレタリア國家』なる鵺的概念は、實際のところ此いづれかへの徹底を暗中模索しつゝある苦悶の悲鳴と見ることが出來る。

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